【小説】時間の奴隷/恋愛部長
時間は私たちの恋を刻んでいく。
どんどん細かく刻んでいく。
あなたにとっては消し飛ぶほどの短い時間を、私は永遠かと思うほどに感じている。
私の周りに、待ち続けた時間の破片が、氷のように冷たく振り積もる。
ねえ、次に、あなたが私を思いだすまで、私、あとどれくらい、待っていたらいいんだろう。
writer:恋愛部長時間ばかりが過ぎて最近は、時計ばかり、気にしている。
今この時、彼が何をしているのか。
詳細に思い浮かべ、そして、その隙間を、妄想の中で探そうとしている。
そんなことばかりしていると、ひどく疲れるばかりだとわかっているのに。
舞は、睨みつけていたスマホを置いて、ため息をついた。
ただ1人の小さな部屋で、まるで息を殺して生きているみたい。
まるで逃亡者か何かのようだ。
逃げ出したい、とは思う。
彼だけを思うこの時間から。
彼の心のうちまで想像して、身を切られるような思いをするこの時間から。
先ほど、夕飯時に彼に送ったメッセージアプリにリアクションはない。
読んだ形跡もないから、まだ仕事をしているのだろう。
最初は既読になったまま返事がないことにイライラしたけれど、最近は既読にすらならないこの状況に余計イライラする。
たぶん、舞が先月こう言ったせいだ。
「既読になったということは返事が来るのかと期待してしまう」と。
メッセージに気づいたらすぐ返事がほしい、という意味だったのだが、一真は違う風に取ったらしい。
つまり、「返事をする気がないなら、そもそも読むな」と。
以来、既読にすらならなくなった。
これで、自分から一真への一筋の回路さえ閉ざされたような気持ちだ。
舞は、暗い気持ちで、メッセージアプリのアイコンをにらむ。
付き合い始めた学生時代は、どちらかと言うと一真のほうが舞といっしょに居たがった。
舞は、自分の時間がほしかったので、いつでも居場所を確かめて、いっしょに居ようとする一真が少しうっとおしく思うこともあった。
「少し距離を置こうよ」なんて、距離の意味もわからずに一真に告げて、涙目にさせてしまったこともある。
あの頃が、まるで何十年も昔のことのようだ。
2人そろって大学を卒業して社会に出て、お互いにやりたかった仕事に就いた。
舞は、それほど忙しくはない会社で広報の仕事に就き、一真は激務で知られる金融コンサルティングの仕事に就いた。
学生時代は、たわいもない議題で朝まで討論したりして、時には言い負かしたりもしていた一真が、たった数年のうちに、自分よりもずっと先を走っている気がする。
たぶん、仕事時間の総量で言ったら、自分の業務時間の10倍くらい、一真は働いているんじゃないかと思う。
一真の業界の特徴だとは思うが、仕事の結果に対するハードルは新人だろうが容赦なく高い。
実際に会社に申告する時間よりもずっと長く仕事をして、ようやく先輩たちの「普通」に追いつくんだ、と一真は語っていた。
その頃はまだ、仕事にやりがいがあって、目がキラキラしていたし、舞に、職場の雰囲気を語れるだけの気持ちの「余裕」は残っていた。
でも、2年目、3年目になるにつれ、一真の表情からは、イキイキしたものは失われていった。
ただただ日々の激務に追われ、寝ないまま次の仕事に入ることも増えた。
寝ていなければ仕事の効率も落ちるし、凡ミスも増える。
それは刻一刻と動くシビアな数字データを扱う一真の仕事では死を意味したので、一真は必死で眠りと格闘し、わずかな時間を休息に充てるようになった。
舞は、その一部始終を聞いたわけではないけれど、どんどん目つきが変わって行き、別人になって行く一真を呆然と見ていた。
いつの間にか、月に一度会うことも叶わないくらい、2人の関係は希薄なものに変わっていた。
メッセージを送っても、ろくな返事は返ってこなかった。
朝目覚めると、夜中に送られた「つかれた」というスタンプだけがスマホの画面に虚しく浮かんでいた。
最初こそ、「大丈夫?」と夜食の弁当をつくって自宅を訪れてみたりもした。
だが、ただひたすらにパソコンに向かい、目の色を変えている一真の横にいても、自分が透明人間になったようで虚しくて、会いに行くのをやめた。
会社の近くを通りかかる時も、もし少しでも顔が見れたら、と思ってメールしてみたりしたこともあったけれど、「ごめん……」という言葉の先を飲み込むような返事が返ってくるだけなので、連絡するのはやめた。
せめて文字だけでもやり取りしたい。
1日に一度でいいから、と思って、毎日メッセージアプリに朝晩のメッセージを書き残しているけれど、それもいつしか返事が返って来なくなった。
「ああ、もう私のことはどうでもいいんだな……」そう思うと不意に、もう全部終わらせたい、という衝動に駆られる。
でも、今の一真は、自分の知っている一真ではない。
全部忙しさのせいなんだ。
時間がないだけなんだ。
と思うと、そんな一真を切り捨てるのはいけない、とも思う。
一真の仕事を理解したい。
頑張っている一真を応援しなけりゃいけない。
自分さえ我慢して、待っていればいい。
そう思う気持ちと、本当は一真はもう自分に飽きていて、愛情や思いやりをかける必要も感じていないんではないか。
長く付き合っている自分は軽んじられているだけなんじゃないか。
という気持ちがせめぎ合う。
毎日、一真の心の内を想像しては、自分の中で激しくアップダウンする。
おかしなものだ。
現実の一真とは何もやり取りしていないのに、その日の心境次第で、「やっぱりがんばろう」と涙ぐみながら希望を燃やしたかと思うと、次の日には「もうお終いにしたほうが2人のため……」とどん底まで落ち込んだりする。
その振れ幅がひどすぎて、たった1人で船酔いしそうだ。
ただこれだけは、言える。
仕事に真剣に取り組む一真が好きだ。
絶対に弱音を吐かずに、打ち込んでいる一真が大好きだ。
他には誰も考えられないくらいに。
たとえば、たまに友人に連れ出される合コンで、夕方から飲み屋に顔を出して、キレイに整った眉毛でニヤついている男を見ても、全然魅力的には思えない。
こんな時間からチャラチャラやってて、男としてどうなの? と思ってしまう。
それに比べたら、仕事に全力投球してる一真は素敵だ。
そうやって、何事にも誠意を尽くす男だから惚れたのだ。
別れるなんて、とても考えられない。
自分が望んでいるのは、ほんのわずかなことなのだ。
大それたことなど望んでいない。
ただほんの少しだけ、舞のことも思い出してほしい。
1日の終わりだけでもいい。
5分でいい。
ホッと一息ついた時に、会いたい、声を聞きたい、と思ってほしい。
声だけでも、文字だけでもいい、つながっている証しがほしい。
それは、そんなに大それた望みなんだろうか?このままでは自分は壊れてしまう。
一真にとっての理想の彼女でありたい自分と、寂しさに耐えられずに叫びだしてしまいそうな自分と。
真っ二つに引き裂かれてしまう。
舞は、スマホを取り出した。
先ほど確認した時から、たったの47分しか経っていなかった。
何もすることがない、帰宅後のこの時間ほど長い時間はない。
舞は、その日何十回目かわからないため息をついた。
時間はつくるものだから「え~、それはさあ、舞がやさしすぎるんだと思うよ」友人の由佳は、気の毒そうな顔で言った。
「言いにくいけど、……一真君、それホントに忙しいだけなのかな?」その言葉に、舞は、じわっと胃液がせり上がるような感覚を覚えた。
「それって、……」舞は、うまく微笑むこともできない。
「だってさ、私の友達の彼氏でも、忙しい人はいっぱいいるよー? 会社経営してる人とか。
IT系の人とか。
でも、みんな、なんだかんだで時間つくってるし、好きな人には会いに行くって」「言いにくい」、と言いながら、由佳はずけずけと痛いところをついてくる。
いつもそうだ。
学生時代から、由佳はいつも他人の恋を冷ややかに見てる風があって、普通は他人に言われたくないことも平気で言ってくる。
本人は良かれと思っているのがまた厄介だ。
今日由佳に誘い出されるままにランチに出て来て、しかも聞かれるがままに近況や悩みを話してしまった自分を呪いたくなる。
「一真君はさあ、」目をキラキラさせながら由佳は言う。
「舞のためには時間割けないってことでしょ?」ね? と念押しするように首をかしげる。
「つまり、もう舞は、今の一真君にとって、どうでもいい存在ってことなんじゃないのかな?」ぐさり、と胸を刺されたような気持ちになる。
聞きたくない言葉を聞いてしまった。
聞かなければよかった。
一度聞いてしまえば、二度と心の中から消せない。
そういう言葉がある。
舞は、うつむいたまま黙りこくる。
由佳は、今さらのように慌ててフォローした。
「もちろん、そんなことないって私は思いたいよ! でも目をそらしちゃいけないこともあるから。
友達だから言うんだよ!」舞は、ずきずき痛む胃を押さえて、席を立った。
そして、「ごめん、帰るね」とだけ言って、なにかアワアワ言っている「友達」を置いて、喫茶店を出た。
会わなければよかった。
相談なんかしなければよかった。
ぐるぐると後悔だけがめぐる。
あとちょっとで崩れ落ちそうな心を必死で保ってきたのに。
もうダメだ。
決壊だ。
舞は目を閉じて立ちすくんだ。
不安がまるで真夏の入道雲のように膨らんでいる。
その底は真っ黒。
一真は、もう私を必要としてない。
邪魔なだけ。
もうどうでもいい存在。
そんな凶器のような言葉が次々浮かんで切りつけてくる。
信じよう、待っていよう、そんな風に思えた自分が今はもう信じられない。
一真の何を信じればいいのだろう?もう何ヶ月も会っていない、形だけの「恋人」を。
もしかしたら、一真だって、もう別れたいのかもしれない。
仕事の邪魔になる彼女なんて。
学生時代に付き合っていた女なんか、もう新しさも驚きもない。
そんな彼女を、かまって何か得があるんだろうか。
今はもっと自分にプラスになる人にそばにいてほしいのかもしれない。
本当に好きな人ができたら、その人のためには、頑張るのかもしれない。
全部、私のせいなんじゃないか。
そう思うと苦しくて苦しくてたまらなくなった。
一真に会って話さなければ、と舞は思った。
もうこんな宙ぶらりんの関係のまま、待っているのはもう無理だ、と思った。
あふれ出してしまった想いの行方「夜中でもいいから、一度会いたい。
話がある」そんな切羽詰まった舞からのメッセージの文面に、何か察知したのか、一真が1ヶ月以上ぶり舞の家に姿を現したのは、夜中の2時のことだった。
眠そうな目をこすって、一真は舞の部屋のラグの上にどっと倒れ込むようにして座った。
「あ~もうしんどい。
マジで死にそう。
今日もエグかったわー」一真は、一気にそう言うと、舞が差しだしたペットボトルの水をごくごくと飲んだ。
久しぶりの一真の姿に気圧されて、舞はビクビクと、お伺いを立てるようになってしまう。
「ホントに水でいいの? ビールとか、買ってくる?あ、お腹空いてない? 何かつくろうか?」一真はごろりと横になりながら、目を閉じた。
「いい。
いらない。
今酒とか飯とか口にしたら絶対寝落ちする」そう言いながら、すでに今にも寝息を立てそうな顔をしている。
「ごめ……、話って何……?」一真は目を閉じたまま聞く。
ずるい、と舞は唇をかんだ。
そんな風に、「疲れた」って全身でアピールされたら、何も言えない。
言い出せない。
「……ううん、いいよ。
またにする。
一真疲れてるし」「なんだよ、無理やり時間つくって来たんだから、言えよ」「たいしたことないんだ……ごめん。
わざわざ来てもらって。
ごめんね! また今度にするね」あわてて舞が言うと、一真は、大げさなため息をもらす。
「……んだよ、それ。
俺いま一瞬でも時間あったら寝たいのに。
どうでもいいことなら、わざわざ呼び出すなよな」本気でイラだっているような声だった。
その声に、心の中をざくっと削られたような気がした。
「一真……」一真は、返事もせずに、両腕を顔の前で交差させてじっとしている。
もしかしたら、本気で寝入ってしまったのかも知れなかった。
舞は、その場に座り込んで、自分の膝の上を見つめた。
ぱたり、と涙がこぼれた。
その涙につられるように、不意に気持ちがこみあげてきて、舞は口を開いた。
「ごめん、……私、もう一真の気持ちがわからない」言ってはいけない、と心のどこかで警告ランプが光っていた。
でももう止められなかった。
「一真は、もう私のこと好きじゃないんでしょ?」一真は、静かに腕を下して、目を開けた。
「舞……?」険しく眉根を寄せている。
「何言ってるんだよ、いきなり……」「いきなりじゃないよ。
ずっと思ってたよ。
」「ずっと? ……なんて?」「一真はもう、私のことなんてどうでもいいんだって。
もう私に会いたくないんだって」激昂して、余計な言葉がスラスラ出てくる。
「何言ってんだよ。
そんなわけないだろ。
忙しいからだって、言っただろ。
舞だってわかってくれてたんじゃないのかよ」一真の声は、少し震えてるような気がした。
「私だってわかってたよ。
わかってたから、ずっと我慢してたんじゃん。
会えなくても、メールや電話に返事くれなくても。
しょうがないって、必死で笑顔つくって、がんばってって言ってたんじゃん。
どんなにさびしかったか、分からなかったでしょ」言いながら、一真への想いがあふれ出して、涙がどんどん出てくる。
「一真と付き合ってると、私、つらいばっかだよ。
悲しいばっか」涙にそそのかされるように、過剰な言葉がどんどん出てくる。
自分でも止められなかった。
一真は、はあ、と大きいため息をついて顔を覆った。
「マジかよ。
勘弁してくれよ……そういう話なら、また今度にしよう」一真は、スーツの上着をつかんで、身を起こした。
帰りたい、この場を去りたい、と全身が言っていた。
ダメだ。
いまこの会話の結末があいまいになってしまったら、きっとこのあと自分は壊れてしまう。
そんな焦りが舞を突き動かした。
「待ってよ。
一真、私のこと、もう好きじゃなくなったんだったら言ってよ。
逃げないでよ!」そう言ったら、急に涙がどんどん流れ出し、嗚咽がこぼれた。
悲しみがあふれ出す泉のようだ。
一真の腕をギュッと握りしめた。
そんな風に追い詰めていいことなんかあるはずない。
忙しくて疲れている一真にどうしてそんなことを言ってしまったのだろう。
きっと、一真は、その言葉に仰天して、謝ってくれる。
自分を見てくれる。
どこかでそう思っていたのは確かだった。
だけど、一真は目をつぶって、苦悩の表情をしたかと思うと、腕を握っていた舞の手を振り払った。
えっと思って舞が目を上げた。
「もう、無理。
俺には無理だわ。
……いまそんな余裕ない。
俺、舞を不幸にしてまで、付き合っていく自信ないから、ごめん……」一真はうつむいて、ぶるぶる震えていた。
感情を必死に押し殺そうとしているようだった。
「もう、俺のことは見捨ててくれ。
舞」舞は、頭の中が真っ白になるような感覚に襲われた。
「え、なにそれ。
どういう意味?」「俺のこと、もう待たなくていい。
他の誰かと付き合っていい。
お前はお前で、幸せになってくれ。
俺はもう、無理だ」「別れたいってこと? そうなの? 一真……なんで」一真は暗い目を上げて、心底疲れたような声で言った。
「お前がつらいって言ったんじゃないか。
だから、もうやめよう。
もう、俺にはお前を幸せにできる自信ないんだよ」舞は、そこで初めて、はっきりと自分の心を知った。
絶対に別れたくない、という気持ちを。
そうだ、初めから、別れる気なんかなかった。
なのに、なんで。
一真を追いつめるようなことを言ったんだろう。
「やだ……嘘。
やだよ。
別れたくないよ。
一真、別れたくなんかないよ」一真に取りついたが、もう遅かった。
一真は、舞を振り切って、立ち上がった。
「もう、俺なんか忘れてくれ。
俺が悪いんだ。
俺、お前の期待には絶対に応えられないから」「やだ……待ってよ。
一真。
もう一度考え直してよ。
私、もう泣き言言ったりしないから。
文句言ったりしない。
だからお願い……!」舞は泣きながら去って行く一真の背中に叫んだ。
でも、一真は振り返りもせずに、玄関に立って、肩をふるわせて、言った。
「ごめん、舞」そして、飛び出そうとした舞の目の前で、アパートのドアが、非情にもガチャン! と音を立てて閉じられた。
「やだよ、一真――――! うわああああ」舞は玄関に泣き崩れた。
あれから、5年。
ずっと一真のことは忘れられなかった。
何度も何度も、自分のしたことを思い返しては、記憶の中の自分を呪い殺したい気持ちになった。
なんであんな風に疲れ切った一真を追いつめてしまったのか、せめて、「また今度会って話そう」という言葉を受け入れられなかったのか、自分を責め続けた。
男の我慢の気持ちは、水をいっぱい張った甕(かめ)のようなものなのだ。
ずっと限界まで我慢して我慢して、なんとか関係を維持しようとするけれど、ある限界点を超えてしまうと、そこで決壊する。
水がどっと甕から零れ落ちるように、もう二度と、関係を維持しようとは思えなくなる。
どんなに、泣いてすがっても、声の限り懇願しても。
一度あふれてしまった水は、もう戻らない。
それを舞は、一真との別れで、身を持って知った。
一真には、何度も何度も長い謝罪のメールを送った。
「あんな風に責めてごめん。
もう二度と言わないから」「忙しいのは分かってる。
そんな一真を応援している」「別れるなんて考えられない。
一真しかいない」心から、そう思って、涙ながらに何度も送った。
でも、そのひとつにも返事はなく、既読の文字だけが無情に連なって行った。
始めは、まさかこんな簡単に別れるはずがない、と思っていた舞だが、3ヶ月もたつ頃に、ようやく、自分たちの関係が終わってしまったのだという事実に行きついた。
そして、それを知って、改めてひどく泣いた。
一真が、本当はどう思っていたのか。
今となっては、もう確かめるすべはない。
でも、一真の友人の言葉を信じるならば、一真は、舞との別れは、舞への愛情とは何の関係もない、と言っていたということだ。
好きでなくなったわけではない、ただ、自分のせいで、恋人が苦しんでいるのに、自分にはそれを打開するすべがない。
その事実に、打ちのめされたのだ、と。
そしてそのすべてから、逃げ出したくなってしまったのだ、と。
そして、いま、舞は転職し、忙しい職場に配属になって、初めて、あの頃の一真の気持ちがほんの少しだけ分かったような気がしている。
忙しい時は、生命の危機なのだ。
何よりも、毎日の生活を維持することだけが最優先。
恋愛なんかにうつつを抜かしている場合じゃない。
舞は、今後の工程表を、PC上でチェックしながら、ため息をついた。
今日までのアラートがついている項目を全部終えないと、帰れない。
今日も終電には乗れないだろう。
連日の深夜残業で、眠くて、思考が麻痺して来る。
そんな時は、ふと一真のことを思いだす。
たぶん、あの時の一真は、本当に余裕がなくて、恋愛だの、舞のことを考える余裕がなかったんだろう。
好きだの嫌いだの以前に。
そもそも頭と心の中に、そのためのスペースがなかったのだ。
スマホが明るく光っている。
さっきから何度目だろう。
どんどん増えていくメッセージ。
今付き合っている恋人の永井からのものだというのは、スマホをのぞかなくてもわかる。
「はあ、……めんどくさい。
いまはそれどこじゃないっつの」思わず、声が出る。
それを聞きつけた隣の席の若い後輩が、パーテーション越しに顔を出した。
「あー、また彼氏っすか? ダメですよ~大事にしないと。
そのうち言われますから。
俺みたいに」「なんだっけ、仕事と私とどっちが大事? だっけ?」「そうそれっす! まさか俺、そんなマンガみたいなセリフ現実に言われるやつがいるなんて思わなかったっす。
しかも自分、言われてるし」「はー、それ、マジでうざいね。
彼女には悪いけど」「なんか忙しい時って、ちょっと隙間時間あっても、恋愛とかに頭切り替わらないっすよねー。
なんか仕事のこと考えたかったり、職場の人と話したかったり」「わかる! なんかモードが上手に切り替えられないんだよね。
なんか甘いムードとかになるのが、無理。
いまそれどこじゃないって感じで」そう言いながら、また一真の顔が浮かんで胸が痛い。
そうだ、きっとそういうことだったんだろう。
「なんだろうね~忙しいって。
『心を亡くす』って書くんだよねー。
人間変わっちゃうもんだね」舞はうーん、と伸びをした。
「こういう人間と付き合って、うまくいく人っているのかなー?」後輩は、賢そうな目をくるくるさせて、にこっと笑った。
「そりゃ、忙しい人同士っすよ?」「ああ、なるほど……」「先輩、今日仕事終わったら飲みますか!」「え、あんた彼女に連絡は?」「いいのいいの。
忙しい時くらい、自分のしたいことを優先させたいじゃないすか」さらり、と言う後輩の口調にちょっとドキッとしながら、舞は、あわててパソコンに向かった。
「OK、終電逃したら、朝まで飲むぞー!」舞は、ほんの少しだけ明るい気持ちになって、キーボードを勢いよく叩いた。
昔の自分を、記憶の彼方へ振り払うように。
(恋愛部長/ライター)(ハウコレ編集部)