ハウレコ

【小説】ひと夏の恋、永遠の恋。/恋愛部長

死ぬ時に、たった1人だけ思い浮かぶ顔があるとしたらそれはきっと、彼の顔だ。

たったひと時だけを共にして、生涯忘れることができない、あの男の顔だ。

writer:恋愛部長消せない記憶バージンロードを歩くとき、涙を流す花嫁が、幸せだから泣いていると思うのは早計だ。

和紗は、まるで他人事のようにそんな風に考えて、自分の足元にまといつく純白のレースをうるさげに払った。

心の中に、どうしたって、消せない顔がある。

その男を想うことは二度と許されてはいないのに、どうしてか、今朝から、彼の顔ばかり浮かぶ。

日に透ける明るい茶色の髪。

なで肩の少し大きめな身体。

まぶしそうに細めてこちらを見る、あの意志の強い瞳。

「カズ」、と彼は呼んだ。

低い甘い声で。

無骨な長い指を髪に差し入れ、信じられないくらいやさしい仕草で、頭を撫でてくれた。

思い出すのは、あの、鮮やかなオレンジ。

まるで太陽をそのまま溶かして塗ったような、オレンジの屋根と、まぶしい白い壁。

家々を、街路樹を圧倒するように咲き誇る、赤やピンクの花々。

からりと晴れあがったあの空気と、むせかえるような甘い花の香り。

そのすべてを思い出すだけで、胸が苦しくなり、涙が零れ落ちそうになる。

あの場所、あの風景、あの空気、すべてが、彼なのだ。

彼そのものを表しているのだ。

だから、記憶の中のほんの一端に触れただけで、彼をリアルに思い出し、彼が恋しくてたまらなくなる。

あの時、そこにいた自分に、今すぐにでも飛んで戻りたくなるのだ。

たったひと時の恋だったのに。

その恋は、自分を、体の隅々、細胞ひとつひとつまですっかり変えてしまった。

バタン、と戸が開き、新郎である男が入って来た。

「かずさ」とにこやかに笑うその自信に満ちた顔を見ていると不思議な気持ちになる。

ずっと知っているはずの顔なのに、なんだか知らない人のようだ。

亮平は、和紗の腰に手を回し、軽くハグをした。

この男を、誰よりも好きだと思っていたことが、確かにあったはずなのに。

その時のあの胸の高鳴りを、思い出すことがどうしてもできない。

和紗は、微笑んで、少し距離を取る。

そんな仕草に、亮平の瞳の中に不安の色が差す。

そうだ、彼だって怖いのだ。

あのとき、和紗の心を失った時に感じた喪失感を、きっと彼は忘れることはできないだろう。

きっと、一生。

和紗は、少しおかしくなった。

「私たちは、似たもの同士、結婚するんだ」そんなふうに、ふと思った。

本当に焦がれる人はきっと一生手に入れられない。

だけど、ともに生きるしかないのだ。

さあ、歩こう。

晴れがましい道を。

和紗は、立ち上がった。

―――――――葬送のメロディを、かき鳴らして。

変わっていく彼、離れていく心学生時代の付き合いは、社会に出るともろくも崩れてしまう、とは聞いていたが、どこか他人事のように思っていた。

まさか、自分と亮平が変わってしまうなんて、想像もしていなかったと言っていい。

亮平は、和紗と同じ大学を卒業後、多忙なうえに派手に遊ぶことで有名な大手商社に入社し、たった数ヶ月ですっかり人が変わってしまった。

もともとは、ただ物静かな学究タイプの男だったのが、メガネをはずすと無駄に美形だったことが災いしてか、商社に入社してからは動機や先輩社員に連れられて、毎日合コン、合コン、合コン、の日々になった。

会社内でも、一般職女子の熱い視線を浴び、夜は夜で様々な職種の女性たちに取り囲まれて、黄色い声を上げられていれば、人間なんてあっけないものだ。

すぐに、身に着けているものは垢抜けて、その容貌には華やいだ自信が満ち溢れ、口調も滑らかに、饒舌になって行った。

人間は、扱われ方でどうとでも変われるのだ。

とくに、野心に満ちた若い男だったら。

和紗は、何度も繰り返されるドタキャンに、ほとほとうんざりしていた。

亮平はまるで、カーニバルの熱狂に浮かされている道化師のようだ。

あれほど冷静沈着で、歳より落ち着いて見えた亮平が。

和紗の好きだった、静謐な湖のようだった亮平が。

いまでは、世俗に暴かれ、狂乱し、食い散らかされてしまった。

和紗は、虚しさを覚えるとともに、自分の中に沸き起こる亮平への嫌悪感に戸惑っていた。

まだ、亮平のことは、好きだ。

誰よりも好きだと思う。

女性たちに囲まれ、なれなれしく触れられているのかと思うと、虫唾が走るほど嫌だと思う。

それは、まだ亮平を愛している証拠だと思った。

亮平と離れようと決めたとき、和紗は社会人3年目になっていた。

何度も何度も別れ話を切り出そうとしたけれど、実際に亮平と顔を合わせ、昔から変わらない人懐こい笑顔を向けられると、どうしても言い出すことができなかった。

合コンは相変わらず止むことはなかったし、時差をものともせずやり取りする苛烈な職場で、忙しさはひどくなる一方だった。

化粧品などのプロダクトデザインを手掛ける小さなデザイン事務所に入社した和紗と亮平との間には、もはや埋めようのない溝が広がっていた。

そんな時に、「パリにデザインを学びに行かないか」と雇い主であるデザイナーの師匠に話を持ちかけられたのだった。

パリは、デザイナーにとっては憧れの地だ。

迷うことなく、ふたつ返事で行くと答えた。

亮平に相談はしなかった。

そして、3か月後には住居を畳んで、パリに飛んでいた。

亮平は、出国の見送りには結局、遅刻してたどり着けず、空港から車で約15分ほどの地点から、最後のメッセージを飛ばしてきた。

「ごめん、もう間に合わないからここから。

あっち行っても元気で。

着いたらまた連絡して」その言葉を、空港のゲートをくぐりながらケータイの画面で確認した。

さすがに心細くて、最後に亮平の顔を見たかった和紗は、そのメッセージに落胆して、ちょっと泣いた。

亮平にとってはよくある海外への渡航で、なんてことはないのかもしれないが、和紗にとっては、大事件だ。

出発くらい見送ってほしかった。

これが、最後になるだろう……。

和紗は、そう思った。

亮平とは、はっきり別れられなかったけれど、物理的に距離を開ければ、きっと離れてしまうだろう。

それは、2人にとって、きっと良いことなのだ。

自分から手を放すには、和紗はまだ亮平のことを好きでいすぎたから。

パリでの生活パリに着いてから、しばらくは、語学学校へ通ったり、師匠の知り合いのフランス人デザイナーのもとでインターンのような仕事を始めたりして、目が回るほど忙しかった。

見るものすべてが新鮮で、行きたい場所、見たいものが次々現れ、毎日寝る間も惜しいくらいだった。

パリの街は、見るもの見るものきらびやかで、細部まで精緻で美しく、和紗はすぐにこの街に恋をした。

亮平への連絡も、ふと気づけば1か月過ぎて、亮平からのご機嫌伺いメールを見るまで本当に忘れていた。

物理的な距離と時間と言うのは恋を上手に風化させてくれる。

和紗は、亮平からのメールを受け取っても、ちっとも胸が躍らない自分に気づいていた。

まるで日本を離れたとたん、自分を捕えていた重苦しい磁場から逃れ出ることができたように。

心の底から、亮平のことがどうでもよくなっていた。

だから、亮平へのメールも、もらってから1週間以上経ってから、形式的に返しただけだった。

「毎日忙しく元気にやってます」それだけ書いて送った。

亮平は、それが不満だったのか、むっつり黙り込んだまま、メールも電話も寄こすことはなかった。

パリは、花盛りの春から、いよいよ夏へと向かうところだった。

日々日差しが強まり、街路樹の緑は濃く生い茂って、深い青空にあおあおとした匂いをまき散らしていた。

フランス人デザイナーの雇い主が、夏のバカンスは、ニースに避暑に出かける、と言い出したので、和紗も、用はないが南仏のほうへ旅行することにした。

パリの街も刺激的で面白いが、やはりフランスは、大いなる田舎の国だ。

パリを電車で少し走れば、すぐに田園風景に取り囲まれる。

まるで、小さな石の街を、大きな田舎で取り囲んでいるようなものだ。

いま取り掛かっている新しい化粧品のパッケージのインスピレーションをもらいに、南仏へ旅することは素晴らしいアイディアに思えた。

あの夏のことは、たぶん、一生忘れることはないだろう。

車窓から眺めるどこまでも続く豊かな田園。

その背景に突如そそり立つ岩山の地肌に、まるでミニチュアのように可愛い街並みが、中央のキリスト教寺院を取り囲む形で、所狭しと軒を並べている。

空も畑も、昔見た印象派の絵画そのままの色合いで、むしろ写真のようにこの風景を切り取っていたのだと言うことに驚いた。

一瞬の隙に奪われたもの和紗は、フランス人のデザイナーとは途中で別れ、1人で南仏の観光地を回ることにした。

小さなシャトーホテルに宿を取り、ゴッホが生きた街でカフェを飲み、ゴッホの跳ね橋の前で、しばし佇んでみた。

徐々に日が長くなり、夜はいつまでも白々と明るい夏への日々。

まだ明るい通りのカフェでワインを飲み、ボーっとしていると、これまでの心の中に溜まった澱が、ゆるゆると溶け出していくようだった。

「おい、あんた」突然かけられた日本語に、一瞬反応が遅れた。

「……?」咄嗟に、何語で返していいか思考がもつれて、振り返った時には、その背の高い男に腕をつかまれて、椅子から引きずり上げられていた。

「バッグどうした? やられてないか?」親指でくいっと後ろを指す。

見れば、椅子の背に引っかけてあったハンドバッグがない。

「あーーっ!」驚いて、周りを見回したが、和紗のハンドバッグは煙のように消え失せていた。

和紗の腕をつかんだまま男は、呆れたようにため息をついた。

「あんた、日本の旅行者か。

いくら田舎だって、背中にバッグ引っかけておく馬鹿がどこにいる? 持ってってくださいって言ってるようなもんだろ」背が、ずいぶん高い。

浅黒い肌に漆黒の髪。

でも、その口から滑り落ちるのは、耳になじむ数か月ぶりの日本語だ。

「すられた……? まさか……」呆けたように和紗は言って、自分の服の内側に忍ばせたポシェットに手をのばす。

大丈夫、そこに財布とクレジットカード、パスポートは入っている。

「だ、大丈夫です。

貴重品はあります。

バッグは……油断してましたけど」たしかに、パリの街なかではつねに警戒してバッグは抱えて放さないのに、ここでは田舎である安ど感からか、つい日本にいる時のように椅子の背に引っかけてしまった。

貴重品を分けて、いつものように身体に身に着けていて正解だった。

男は、それを聞くとふん、と鼻を鳴らし、少し目つきを和らげた。

「それはよかったな。

でも気をつけろよ。

女1人で酔っ払ってボケッとしてると、危ないぞ。

ここは日本じゃないんだから」男は、そう言い捨てて、去って行こうとした。

呼び止めたのは、多分、数か月間の間飢えていた日本語に突然触れたから。

久しぶりに、心から安心して語れる相手を見つけてしまったから。

和紗は、自分がずいぶん孤独で弱っていたことに今さらのように気づいた。

「あの、……すみません。

日本の方ですよね。

この辺にお住まいですか?よかったらいっしょに、1杯飲みませんか?」男はじろりと、和紗を見る。

「あんたのおごりか?」和紗は、あわててポシェットを引っ張り出す。

「はい! おごりで。

1杯だけですが!」男は、それを見てふわっと、氷が解けるように笑った。

心の底からの笑顔というのは、まるでその人の中を覗き込んでしまうような錯覚を覚える。

あ、……と思った。

この感覚は、確かに覚えがある。

「いいよ。

1杯奢ってもらおう」男は目の前の椅子に座り、メニューをさっと見ると、店員に合図を送り、流ちょうなフランス語で白ワインを注文した。

「座れよ。

いつまで突っ立ってるんだ?」和紗は、痛いほど音を立てる自分の心臓の音を聞いていた。

そうだ、これは、きっと、恋だ。

和紗は、出会った瞬間から、マサシに恋に落ちていたのだった。

マサシと出会って、その夏の色合いはすべてがらりと変わってしまった。

こんなに、すべての景色が輝き出して、色彩が鮮やかに浮き立ってくるとは思わなかった。

もともと素晴らしいと思っていた南仏プロヴァンスの風景が、急速に現実のものとして自分を取り込んでいくのを感じた。

オレンジ色の夢マサシは、マルセイユの港で働いているエンジニアで、たまたま休日に友人に会いにアルルの町を訪れていたのだった。

いつ、そしてなぜフランスに来たのか、はっきりは聞かなかったけれど、昔は日本企業の現地法人に勤めていたらしかった。

マサシは、次の日マルセイユに帰る予定だったのを、急きょ変更して、小さな村のホテルに宿を取った。

「ちょうど長期休暇を取るところだった」と言っていたが、本当のところはどうだったのかわからない。

マサシは、和紗の観光に1日中付き合ってくれた。

そして夜になると2人は、村のビストロのテラスで、夜風に吹かれながら、ワインを飲んだ。

マサシは、迷うことなく和紗の横に席を取り、手慣れた調子で和紗のグラスにワインを注いだ。

一度お返しに、とボトルに触れようとしたら、さっと指をつかまれてしまった。

「ダメだ。

女が酒のボトルに触るもんじゃない。

こっちで、酒をつぐのは、商売女だけだ」マサシは、そう言って、捕えた和紗の指を静かにテーブルの上に置いた。

触れられた指先が燃えるように感じた。

マサシは無口なほうだったけれど、2人はいろいろな話をした。

今年のワインの出来の話、パリのテロやデモの話、生活のこまごまとした不便の話。

そして、フランスの素晴らしい文化と美意識について。

これまで誰とも共有できなかった、驚きや感動を、伝える相手がいると言うのは素晴らしいことだ。

そして、マサシは、いい聞き役でもあった。

和紗の話す話を静かに聞いて、うなずき、必要な時だけボソッと意見を言った。

「もう敬語とかわからなくなってんだ」という言葉通り、マサシは、つねにぶっきらぼうな口調ではあったけれど、相手の話をちゃんと聞いて、しっかり考えて答えてくれるところには、生来の几帳面さが窺えた。

マサシと話していると、自分の言葉が、深い湖の中にポーンと投げ込まれ、波紋を広げながら深く沈んでいくような気がした。

そこには、全面的に肯定して受け止めてもらえている、という安心感があった。

初めて会うのに、懐かしく、触れ合っていなくても、相手の体温をつねに生々しく感じた。

初めてキスをしたのは、マサシのほうからだった。

「また明日」と和紗が言い、名残惜しそうに見上げると、マサシの目が唐突にうるんで、サッと抱き寄せられた。

そして、顎を片手でとらえると、まるで騎士がするような完璧な仕草で、斜めに和紗の唇にキスをした。

抗えるわけはなかった。

遠くに、村で奏でられるバイオリンやオルガンの音が聞こえた。

マサシの唇は、深い夜の匂いがした。

一度触れ合ってしまえば、もう歯止めは利かないだろう。

そんな予感はもとよりあった。

和紗は、離れていくマサシの頭を両手で抱きかかえると、自分のほうから深く唇を重ねた。

もっと、もっと近づきたい。

心の底から湧き上がる、奇妙な情熱が、身体じゅうを満たしていた。

「……いいのか?」低い、吐息のようなマサシの声が耳元にささやかれて、和紗は必死に頭をマサシの肩口にこすり付けた。

ただマサシともっと抱き合いたい、というシンプルな欲望だけがそこにあった。

夜中まで灯火がキラキラと輝き、終わらない祭りの中にあるようなその小さな村のホテルで、和紗は初めてマサシと一夜をともにした。

過去の日々を思う時、人は大概セピア色だったりモノクロームの映像を思い浮かべる。

それは、実は不思議な話だ。

色あせていくのは物理的なフィルムや紙焼きの話であって、記憶の中の映像は決して色あせることなどない。

マサシを思う時、真っ先に浮かぶのは、鮮やかなオレンジ色だ。

それは、南仏の街並みを彩る石造りの家の色。

朝、ホテルの朝食に並ぶオレンジの果実の色。

そして、田園ににじんで落ちていく夕陽の色だ。

マサシのいた風景は、いつまでもその場所の空気をまとっている。

そして、ちょっと記憶をたどればすぐに、その場所に飛んで帰ることができるのだ。

たとえば、ホテルの小さな木製のベッドでマサシとともに目覚めた時、そのベッドに敷きつめられた真っ白なシーツの色。

ほのかに香るラヴェンダーの香り。

それは、まるで昨日のような生々しさをつねにまとっていて、和紗の心を締め付けるのだ。

マサシと過ごした夏の日々は、夢の中のできごとのように過ぎて行った。

毎日が愛おしく、毎日が文字通り、太陽の光の中で輝いていた。

自転車を借りてサイクリングして廻った美術館。

岬から見た深い深い海の色。

花が所狭しと咲き乱れる小さな城塞の街の路地に落ちる濃い日陰。

視界の先にはマサシがいて、手をのばせば、その太い腕に、日に焼けた茶色い髪に触れることができた。

2人で野原にひっくりかえり、お互いの身体の上に自分の一部を重ねて、ただ日の光を浴びるだけの午後もあった。

黙っていても、マサシの胸の鼓動が手のひらの内側に感じられて、いつまでもそうしていたいと思った。

時にワインを傾け、夜が更けるまで様々な話をしたけれど、なぜか2人とも、パリとマルセイユに戻ってからの話は触れなかった。

それはお互いに暗黙の了解のようなものだった。

本当は、聞きたかった。

また、会えるのか? いつか、またともに日々を過ごせるのか?でも、あまりに毎日が明るく輝いていて、聞きたい言葉は最後まで飲みこまれたままだった。

たぶん、マサシも、同じように感じているのだろう、と和紗は思った。

遠ざかる季節1か月の休暇を終えパリに戻る日、マサシはマルセイユの自分の職場に帰って行った。

駅で、黙ってしばらく抱き合った。

どちらも、次に会う日の話はしなかった。

ただ、じっとお互いの目を見つめ、この時間が永久に続けばいいのに、と思った。

これで、もしかしたら2度と会うことはないのかもしれない。

そう思うと、手を放すことができなくなりそうだったから、「またね」とだけ言った。

マサシは黙ってうなずいた。

一度、離れてホームに向かおうとして足を止め、踵を返してマサシに駆け寄り、抱きついた。

最後に、一度だけ、長い長いキスをした。

列車の窓からホームは振り返らなかった。

あまりにあっけなく列車は出発し、スピードを上げて、懐かしい景色を後ろに吹き飛ばして行った。

すぐに、恐ろしい喪失感に、打ちのめされた。

目に飛び込んでくる車窓の風景が、まだ南仏の懐かしい夏の色をそこに宿していて、ただそこにいないただ1人の人間の不在を大声で告げているようだった。

どうして、私は、彼と別れて来てしまったんだろう?和紗は喪失感に押しつぶされそうになりながら、考えた。

どうして、あのまま彼についていかなかったんだろう。

もうここに、彼はいない。

彼は、永久に、失われてしまったのに。

窓の外を流れていく、日を受けて黄金色に輝くなだらかな丘陵を見ながら、和紗はただただ静かに涙を流した。

パリに着いた時は、正直少しホッとした。

田舎の風景の中にいたら、否が応でも思い出してしまう、この夏の日々のことを、せめて街中では思い出さず済むだろうからだ。

だが、そう思ったのは早計だった。

一晩開けて、窓を開けると、石造りの街並みを見ても、やはり、そこにはない田園風景の幻を追ってしまう。

そこにはいない男の影を追ってしまう。

そして、ただただ切なくて胸が苦しくなるのだった。

どうしようもなくて、ケータイで、1日に1度はマサシにメールをした。

内容は他愛もないことだった。

そして、最後に必ず、jtbと記した。

フランス語の略語で、「キスを、あなたに」。

マサシからの返事は、ほとんどなかった。

きっと、メールは苦手なんだろう。

ぶつくさと言う彼の低い声が聞こえてくるようだった。

それでも、送らずにはいられなかった。

マサシと離れていることがつらく、毎日が砂をかむように虚しかった。

秋、突然の再会気づけば、パリが1年でもっとも美しくなる季節、秋がやって来ていた。

街を歩いても空気が冷たく、街頭で焼栗の焼ける香ばしい匂いが漂っていた。

会社のデスクに戻ると、事務の女の子が妙にニコニコしながら近づいてきた。

「カズ、あなたのボーイフレンドが来てるわよ。

隣の部屋に」ハッと心臓が掴まれたような気がした。

たぶん、飛ぶように、部屋を出て行ったと思う。

それくらい、心が跳ね上がっていた。

「マサシ!!」ドアを大きく開けて、部屋に飛び込んだ。

彼は、隣の部屋の窓に向かったテーブルの椅子に腰かけていた。

突然飛び込んだ和紗の勢いに押されて、飛び上がってこちらを振り向いた。

驚きのあまり、目を見開いて。

何もかもが、一瞬で、彼には分かったようだった。

「かずさ……」亮平は、呆けたような顔で立っていた。

「突然、ごめん。

出張でパリまで来て、それで、驚かせようと思って」一生懸命笑顔を貼りつけて説明しようとする亮平を見ながら、みるみるあからさまな落胆が襲ってくるのを、和紗は感じていた。

なんと返事をしていいのか分からず、和紗はただ黙って、亮平の横の椅子に腰かけた。

亮平は、必死でその場を繕おうとしていた。

自分でも何かを打ち消したいという様子だった。

「いつぶり? 日本出る時も間に合わなかったし、あ、あんときはごめんな。

仕事はどうなの? 順調?」「うん、…まあ、なんとか」和紗は、言葉少なに答える。

正直、今さらどうしてここに亮平がいるのか、ちょっとわからなくて頭が混乱していた。

亮平とのことは、もうとっくに終わったつもりでいた。

たまたま出張で訪れたから、別れた女に異国の地をアテンドでもしてほしいと言うのか。

和紗から立ち上る冷ややかな空気に、亮平は完全に気圧されている様子だった。

「や、ホント、突然で悪かった…。

でも、俺、お前に会いたかったから……」少し甘えたような口調が、ほんの少し懐かしい。

でも、驚くほどに心は動かず、ただただ、その場にいてほしいのは亮平ではない、ということだけが明白だった。

「亮平。

私、もう亮平とは終ったと思ってる」和紗は、唐突に切り出した。

「いま好きな人がいるの」いくら持って回ったことを言っても仕方ない。

亮平のすがるような目を振り払うように、和紗は乱暴に言い放った。

「せっかく会いに来てくれて悪いけど……」そう口にした途端、亮平の顔がみるみるゆがんだ。

あっという間に、顔が真っ赤になっている。

「誰?好きな男って、どこにいんの?いっしょに住んでるの?」見ると大きな目が涙目になっていた。

亮平が泣くのを、長く付き合っていて初めて見た。

「俺、和紗が好きだから、別れたくない」「亮平……でも、」「俺が、会社入ってからひどい態度だったのは、反省してる。

和紗がフランスに行っちゃって、それで、連絡も途絶えて、すごい不安で、それで分かったんだ。

俺、やっぱり和紗じゃなきゃダメなんだって。

俺……」今さら、だ。

和紗は、亮平の言葉に心の中で苦笑する。

男の反省って、いつも的外れだ。

失ってからその存在の大切さを知る、なんて古今東西の男の歌詞にしょっちゅう出て来るけど、女からしたら、迷惑極まりない。

女の恋は、上書き型だ。

新しい恋に書き替えられたら、もう古い恋などどうだっていい。

傷つけられたことすら、どうだっていいのだ。

謝ってもらったからって、過去の自分は救われやしない。

大事なのは、いま、この時だ。

そして、いま、この時、目の前にいてほしいのは、恋を語ってほしいのは、この男ではない。

和紗は、冷ややかな目で、亮平を見た。

「ごめん、もう帰ってくれる? 私、仕事あるから」亮平は、何度も、「また会いに来る」と言いながら和紗の会社を後にした。

和紗はそれを、わずらわしく思いながら見送った。

亮平が割り込んでくると、マサシとのひと夏の美しい思い出が、汚されていくような気がして嫌だった。

あの恋は、特別なものだ。

そう思いたいのに、まるで一時だけのラブアフェアのような気がしてくる。

和紗は、その日、何度もマサシにメールを送った。

どうか何か返事がほしい。

「会いたい」、と言ってほしい。

そう祈るような気持ちで送ったけれど、マサシからの返事は、「元気です」とかそんな感じの、そっけないものだった。

冬になって、雪が街を覆い隠す頃、亮平が再び訪れた。

またしても事前に何も連絡もなく唐突に現れたので、和紗は友人と教会の手伝いに出かけていて留守だった。

亮平は、近くのバールでしたたかに酔い、そのまま橋のたもとで寝込んでしまったらしく、和紗が迎えに行ったときには熱を出してフラフラの状態だった。

仕方ないので部屋に泊め、一晩看病した。

亮平は赤い顔で、ガタガタ歯で音を立てながら、うれしそうに和紗の手を握った。

そして、また数か月後、亮平は仕事でもなく、たった3日間の休暇を使ってパリに姿を見せた。

その時は、2人で、パリのレストランで食事をした。

久しぶりに、日本の様子を聞いたりしながら、ゆっくりとした時間を過ごした。

相変わらず亮平に対する気持ちはもう残っていなかったけれど、何度も会いに訪れる情熱にほだされつつあった。

だけど、別れ際に、抱きすくめられ、キスをされそうになったときは、あわてて身をよじって逃れた。

やはり、そういう気持ちにはなれなかった。

それでも亮平はめげることもなく、「次は日本で」と言い残し、笑顔で去って行った。

バラの花とメール1年の約束だったパリでの生活は、春の訪れとともに終わりを告げた。

最後の1週間は、現地で仲良くなった人々との別れの会で埋め尽くされ、引越しの支度やお土産の準備で、あわただしく過ごした。

「最後に、もう一度会えない?」と、マサシに送ったメールには、やはり返事はなかった。

シャルル・ド・ゴール空港から日本へ発つ飛行機の時刻だけを、メールに送った。

あの夏の日は、もうずいぶん過去のことになりつつあった。

だけど、忘れた日は1日たりともなかった。

本屋に並ぶガイドブックの表紙の写真に、南仏の明るいオレンジ色の家並みを見かけるだけで、あの日々のことが胸によみがえり、切なくて涙が零れ落ちそうになった。

「空港まで迎えに行く」そのメールは、出発の1週間前に亮平から届いた。

てっきり日本の空港だと思っていた和紗は、パリの空港に現れた亮平を見て驚いて立ちすくんだ。

亮平は手にバラの花束を抱えていた。

「1年、お疲れ様。

和紗」亮平は、そう言って、はにかんだように笑った。

「これ、今もらっても困るんだけど」和紗が呆れたように言うと、亮平は口をとがらせて言った。

「これ、わざわざここに届けてもらったんだよ。

今だけでいいから、受け取って」和紗は、花束の中に刺さったカードの封筒に気づいた。

中に、カードと一緒に、ダイヤモンドの指輪が入っていた。

「これって……」「俺といっしょに日本に帰ってほしい。

いらなかったら、花束ごと捨てて」真面目な顔で亮平が言った。

それは、大学時代に好きになった、亮平のまなざしそのままだった。

もう、ここでの日々は終わりなんだろうか。

和紗は思った。

日本に帰れば、何もかも夢だったように終わってしまう。

パリでのワクワクするような毎日も、あの忘れがたい夏の日々も、そして、そこから送った失意の日々も。

和紗は、迷いながら、指輪をつまみ上げ、そして、自分の指に通した。

亮平が涙ぐみながら、和紗を抱きしめた。

もう、搭乗時間が迫って来ていた。

その時だった。

ケータイの着信音が鳴った。

ハッとしてケータイを見ると、短いメッセージが画面上に浮かんでいた。

「しあわせに」その5文字を見て、頭にカッと血が上った。

身をひるがえして、周りを見た。

雑踏の中に、ただ1人の人の姿を探して。

ガラス向こうに、その人はいた。

手にケータイ電話を持っていた。

しっかり和紗と目と目を合わせた。

そして、口元にふっと笑顔を浮かべると、おもむろに彼はメッセージを書き足した。

その文面を見たとたん、和紗は狂ったようにガラスに駆け寄った。

「マサシ! 待って!!!」マサシは、後ろ手に手を軽く振り、そのまま雑踏の中に消えて行った。

和紗は、ガラスをダンダン!と叩いた。

「待って! マサシ! 行かないで!」亮平があわててその腕をつかんで、やめさせるまで、和紗は、泣きながらガラスをたたき続けた。

足元に転がったケータイを、拾い上げて、亮平は和紗の手に握らせた。

声を絞り出して泣き崩れる和紗を抱きしめて、亮平もまた、泣いていた。

「一生分の、キスを」ケータイの画面に、白く浮かび上がった文字が、視界の端で揺れた。

本当に愛しているのは「誓いの言葉を」神父の声に、ハッと我に返る。

和紗は、いま、最後に空港でマサシを見た時のことを思い出していた。

あの時、どれほど苦しかったか。

息ができなくて、胸をかきむしったか。

放心状態で日本に帰国後は、何ものどを通らず、眠れない日々を過ごした。

目の前にいる亮平は、よどみなく誓いの言葉を口にしている。

和紗は重ねてつつましげに「誓います」と言った。

亮平が、うれしそうなやさしい目で和紗を見る。

あの日、空港で踏みにじられたバラの花束にもめげず、亮平は帰国後も和紗のそばにい続けた。

その愛情を、疑ったことはない。

だけど、……和紗は思う。

今でも、愛しているのは、あの男なのだ。

どうにもこうにも、あの恋は、自分の中から消せないのだ。

たぶん、一生。

「誓いのキスを」神父に促され、ベールを上げる。

亮平の顔が近づいてくる。

和紗はそっと目を閉じた。

目を閉じればそこには、いつも広がる風景がある。

視界の続く限り一面の田園。

夕陽の中で黄金色に輝く葉の1枚1枚。

その中にいるのは、誰?本当に愛しているのは、誰?一生分のキスを。

誰よりも、ずっと、愛してる。

和紗は涙を流して、目を開けた。

そして、ゆっくり首を左右に振った。

そうだ、消すことなんか、できやしないんだ。

どれだけ遠回りしても、きっと、想いは彼に戻って行ってしまう。

何度やり直しても、きっと、あの夏に戻って、私は、彼に恋をする。

和紗は、呆然とした表情で両手をおろした亮平に、背を向けた。

もう一度、帰ろう、あの場所へ。

2度と手に入らなくてもいい。

あきらめと思い出だけで終わらせるには、人生はずっと長いのだから。

和紗の手からベールがするりと滑り落ちた。

記憶の中で、海にキラキラと太陽が反射していた。

(恋愛部長/ライター)(ハウコレ編集部)

続きを見る