【小説】誰かと誰かと私のあなた/恋愛部長
記念日は、嫌い。
あなたの誕生日はとくに、嫌い。
あなたと一緒にいられないから、じゃない。
あなたが、誰かひとりといっしょにいるから。
writer:恋愛部長model:前田玲里まちぼうけ今日も、彼は、来なかった。
来週は必ず行くから、と約束したのに。
彼の職場の近くに借りたこの小さなアパートの一室に、彼は顔を見せることもなかった。
もしも、電話をくれたら、すぐにでも車で迎えに行って、彼の家でも、どこへでも、送って行くことだってできるのに。
たとえそれが深夜だろうが、明け方だろうが。
望海はそんな風に考えて、ため息を吐く。
小さなアパートの部屋は、テレビをつければ、それだけで空間がいっぱいいっぱいになってしまうほど狭い。
先ほどから何が面白いのかさっぱりわからないお笑い番組が流れていて、すぐに熱がこもるこの部屋の空気を余計暑苦しくさせている。
この部屋を借りたのも、すべては、佑(たすく)のためだった。
いつだって、「仕事が忙しい」、「今日も残業だ」、「飯も食えない」とメールを送ってくる佑に、少しでも休んでほしくて、職場から1時間もかかる社員寮に住む佑が立ち寄れるよう、わざわざ引っ越した。
もともとは郊外のアパートに住んでいた望海にとって、下町とはいえ都内にあるアパートは、小さいくせに家賃がかかって、肩に重く負担がのしかかったが、それでも、扉を開けて佑が姿を見せるたびに、そんなことはどうでもいいことだと晴れ晴れと思えるのだ。
ただ、1つだけ誤算があるとすれば、佑の会社に近い部屋を借りたせいで、思いがけず、佑がそれほど会社に残っているわけでもなければ、仕事が忙しいわけでもないことを知ってしまったことだ。
割と名の知れた企業である佑の会社は、昨今の働き方改革の影響で、すでに2年も前から、平日は19時に全館締め出されることになっており、そのあとは、パソコンもログインが厳しく監視されるので、実質、残業は不可能なのだった。
望海は、それを知った時はまだ、佑のことを疑ったりもしていなかったから、無邪気に佑に尋ねたのだ。
「ねえ、佑は、遅くまで残業してるっていうけど、家にも帰らずどこにいるの?」今思うと笑ってしまうほど間抜けな問いだ。
佑が嫌な顔をして返事をしなかったのも道理だと思う。
なんて無粋なことを問うんだと思ったに違いない。
もしかしたら嫌みだと思われたかもしれない。
佑には、望海と付き合い出したころ、すでにほかに2、3人の女がいたのだ。
正確にいま何人の女がいるのかは、正直分からなかった。
と言うのも、佑のスマホには、つねに10人近い女との思わせぶりなやりとりが並んでいて、ときどきそのメンツが入れ替わったりするからだ。
どの女が佑のことを「彼氏」だと思っていて、どの女が、ただの「遊び相手」だと思っているのかは、浮かれたようなメールの文面を読んだだけでは分からなかった。
望海は、窓際に吊り下げてある、佑のスウェットの上下をぼんやり眺める。
先週来たときは、いっしょにカップ焼きそばを食べながら、部屋で映画を見た。
つまらないコメディ映画で、途中で退屈した佑は、映画の途中からもぞもぞと望海の服に手を突っ込み始め、そのままベッドに2人でなだれ込んでしまった。
何をしゃべっているのか分からないが、ギャーという叫び声とけたたましい笑い声の中で、セックスした。
いつも、ことが終わると、何事もなかったようにシャワーを浴びて、さっさと帰り支度を始める。
「泊まって行けばいいのに」と声をかけるのもいつものこと。
そして、それに対して、「自分の部屋じゃないと落ち着いて眠れないんだよ」と眠そうに応えるのもいつものことだ。
玄関で、靴を履こうと背を向けた佑に、後ろからギュッと抱きついた。
「ねえ、来週また会える?」望海が思いっきり甘えられるのは、引きとめられないとわかっていても思わず引きとめたくなる、この一瞬だけだ。
「うん、また連絡するよ」ちゅっと、軽いキスをして、佑は出ていく。
両腕の中に、佑の体温を抱いたまま、望海は夜の真ん中に1人残される。
その瞬間の頼りなさは、いつまで経っても慣れない。
――――家に帰るなんて、嘘。
望海は、佑がさっきまで寝転んでいたベッドにもぐりこんだ。
まだ彼の匂いが残っている。
分かっている。
メールでさっき約束していた。
「もうじき残業終わりそう」「今から家行っていい?」そんな文字が吹き出し型に浮かんでいた。
よく知っている、佑の言葉。
佑の口調。
でも、それは自分に宛てたものじゃない。
それがなんだか不思議な気持ちだ。
この世界に、もう1人、横山佑という男が存在するような。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
佑はもう一人いるのかもしれない。
望海は、佑の残り香に包まれて眠気に襲われながら埒もないことを考える。
望海のうちから一歩外に出ると、その佑はもう、望海の知る佑ではない。
誰か別の女の知る佑なのだ。
きっと、そういうこと。
胸に走る鈍い痛みを抱いて、望海は眠りの中に落ちて行った。
佑が自分以外にも女がいることは、付き合ってから半年くらい経ってようやく気付いた。
なかなか佑の家に入れてくれないことや、友達と偶然会っても紹介してくれないこと、なぜか土日や夜に連絡がつかない時間があること、いろいろなことが積もり積もって、いやでもその結論に行きついた。
クリスマスと、年末年始、そして、バレンタインと続いたのちに、佑の誕生日がやってくる。
クリスマスも、だいぶ前から仕事だと言われて、会えなかった。
年末年始は、実家に帰っていたと言って、ケータイもつながらず、「明けましておめでとう」の一言も返ってこなかった。
そしてバレンタインも、昼間ちょっと会えた時にチョコレートを渡したっきりだった。
誕生日こそは、と何週間も前から様子を窺っていたが、直前で、出張が入ったと言われた。
友人たちはみな、口をそろえて「おかしい」と言う。
自分でも、信じようとするたびに疑惑が膨らんでいって、もう限界だった。
初めて佑のケータイをこっそり盗み見たのはそのころだった。
佑は、忘れるのがいやで、どこでも同じ暗証番号を使っているから、ロックを開けるのは簡単だったし、とくにケータイを隠す風でもなかったから、わりとすんなり中身が覗けた。
開けてみれば、メッセージアプリにも、メールボックスにも、SNSにも、いろいろな女とのやりとりが踊っていた。
そこまでわかりやすいか、とあきれるほどに、生々しいやりとりがそこには残されていた。
画像ファイルを見ると、見知らぬ女とのツーショットが何枚も出てきた。
頬をぴったりくっつけて、自分たちを撮っている写真もあった。
どれも、佑だけれど、佑ではないようにも思えた。
ケータイを静かに閉じて、望海は息を吐いた。
今までの疑惑の答えがあまりに簡単に見つかったせいで、なんだかかえって拍子抜けしてしまった。
むしろ、答えが分かって楽になったような気さえした。
要するに、自分は、佑にとって、その他大勢のうちの一人だったのだ。
ずっと、不思議に思っていたこと、引っかかっていたことがするすると解けていく。
そうか、そういうことだったのか。
なぜだか怒りは感じなかった。
妙に冷静に、納得している自分がいた。
佑が、自分だけを愛しているわけではない、という事実は、確かにショックだったが、どこかで、「私一人だけで佑は満足するわけがない」と思う自分がいるのだった。
佑は、たしかに、執着のない男だった。
あまり細かいことを気にしないし、望海がぐずぐずと不満を言っても、あまり気に留めていないようだった。
どこか鈍感なのかと思っていたが、ただ単に、何人もの女に言われ慣れていて、どうでもよかったのだと思う。
でも、いつも「気持ちが重い」と言われて男に逃げられる望海にとって、どれだけ愛していても、尽くしても、ひるまずにさらりと受け入れてくれる佑は、貴重な存在だった。
佑は、たまにしか会えないけれど、会った時はとびきりやさしかった。
そして、思いっきり甘い時間を過ごしたかと思うと、ふいといなくなってそれきりまた何日も音沙汰がないことがしょっちゅうだった。
望海はそんな佑のクールなところもたまらなく好きだった。
恋人にべったり貼りついてくる男は苦手だ。
自分の機嫌をうかがうような、愛想笑いを浮かべた男なんて最低だ。
いつだって、風のようにふいっと消えてしまうような、佑のような男が好きなのだ。
気まぐれに愛をくれて、それっきりになってしまっても。
自分以外に、佑と付き合っている(と自分では思っている)女を、望海は何人かよく知っている。
メールで名前を見かけて、過去までさかのぼって確かめたのだ。
そのうちの1人は、サナエと言った。
サナエの存在を知って半年ほどだが、最近では他人とは思えない。
なぜなら、サナエのインスタグラムをフォローしてチェックしているからだ。
サナエのインスタのアカウントは、佑宛てのメールのお尻のほうに、「インスタ始めたよ♡見てね」というフレーズ入りのテンプレアドレスがついていて知った。
毎日、ふわっとしたソフトフォーカスやハートがいっぱい飛んだフィルターに囲まれた、何気ない日常風景を投稿しているので、それをのぞき見するのが、望海の日課になった。
サナエは、時々思わせぶりな投稿もする。
明らかに部屋に男の気配がある写真をアップして、#今日は部屋で#手料理#こんな休日が好き なんてハッシュタグを並べている。
そんな写真は、わざわざ大きく拡大して、細部まで見てしまう。
写真の端に写っている膝は、お気に入りのチノパンをはいた佑のものだ。
この部屋の隅にかかっているジャケットは、佑のいつものミリタリーだ。
カップの中の、牛乳がたっぷり入ったカフェオレは、きっと、苦いものが嫌いな佑のものだろう。
そんな風に、写真の端々に、佑の気配を見つけて妄想してしまう。
この、レースのラグがかかっているベッドに、佑は腰かけて、サナエといっしょに食事をしたりするんだろうか。
望海とするように、ベッドに2人で沈み込んで、思い付きのようにセックスをするんだろうか。
時々サナエは情緒不安定になる。
そんな時は、望海は、サナエもまた、自分以外の女の存在に気付いているのだろうと確信する。
水紋が広がる雨の日の水たまりの写真に #会えない日は#苦しい#どうして といったハッシュタグが並ぶ。
どうして、の後に飲みこんだ言葉が痛いほど分かるから、そういう投稿には思わずハートマークでいいねしてしまう。
もちろん望海のアカウントは、猫アイコンのダミーだ。
でもせめて、同じ苦しみを抱えていることをサナエに伝えたい、と思ってしまう。
サナエが苦しんでいる日は、望海も同じように苦しいのだ。
大体そんな日は、佑の行方は知れないのだから。
むしろ、自分が会えない日に、向かった先がサナエであると、ホッとする。
せめて、行き先が分かっている安心感だ。
自分の知ることのできない佑がこの世に存在しているのは、たまらなくつらい。
だから、せめて、覗き見できるサナエのもとにいてほしい。
何をしていたかの、片鱗だけでも、捕まえていたい。
どこかにいる佑の存在のかけらを、望海は、必死にかき集めて生きているのだった。
誕生日の夜に「ねえ、来月の私の誕生日、覚えてる?」望海は、佑の頭を膝の上にのっけて、頭をかき混ぜながら言った。
「んー? 覚えてるよ。
えーと……」「14日だよ」絶対覚えてるわけないな、と思いながら、先回りして教えてやる。
付き合ったころだったら、当日ギリギリまで、サプライズを期待して息を潜めて待っていただろう。
今は、半分諦めと、それでも、なんとかして自分の誕生日くらいはいっしょに過ごしたい、という気持ちが半分。
ほかのどんな記念日がスルーでもいい。
ほかの女に譲ってもいい。
自分の誕生日だけは、自分だけの記念日だから。
いっしょに過ごしたい、過ごしたっていいはずだ、と思う。
佑は、ちょっと顔を膝の方に伏せて、いい加減なあくびで眠そうなふりをする。
「ねえ、誕生日だからさ、どこか一緒に行きたい」望海は精一杯の甘えた声で言う。
「どこかって? いま金欠なんだよな〜」佑はめんどくさそうに言う。
「ほら、お前の誕生日プレゼントも買わないといけないじゃん?」佑の言葉に、望海はパッと心に太陽が差したようになる。
「プレゼント? え、……うれしい!」佑に何かをもらったことは、実はない。
クリスマスも会えなかったし、バレンタインのお返しも何もない。
たまに気まぐれに土産と称して、たこ焼きだの、シュークリームだの、自分が食べたいものを買ってくるくらいだ。
好きな男が自分のために何かを買ってきてくれるという行為は、何よりもうれしい。
花一輪でもいいから、もっとロマンチックな、そう恋愛中の男女らしいものを買ってきてほしい。
誕生日にプレゼント。
なんて素敵な響きだろう。
望海は、それだけでもう抱えきれないほどのプレゼントを贈られたような気持ちになって、話をそれきり切り上げた。
誕生日の日は、出かけなくてもいい。
2人きりで部屋でお祝いしよう。
佑が来てくれさえすればそれでいい。
望海は、佑に求められるままに体を開きながら、幸福な想像に胸を膨らませていた。
食事は、デパート地下で少し奮発してパーティー惣菜を買った。
ケーキは、もしかしたら佑が用意してくれるかも? と思いながら、万が一ないと寂しいので念のため、近所のケーキ屋で小さな小さなホールケーキを買った。
部屋には、100均で買ったキャンドルをいくつか飾り、500円の花束を小さなプリンのガラス瓶に活けた。
これだけで、部屋の中がポッと明るくなったようだった。
「今日は何時に来れる?」急かしているように見えないように気をつかいながら、佑の就業時間にメッセージを送ってみるが、返事がなかなか来ない。
そわそわしながら、夕暮れの町を窓から見下ろす。
ちょうど、佑が大きなプレゼントを持って、アパートの前に着いたところだったらいいのに。
そんな、ささやかな胸を膨らませるような期待は、いつもことごとく裏切られてきた。
だから、だんだん何も期待しなくなった。
期待しなければ、がっかりすることもない。
恋人が冷たいと嘆く友人の話は、ぜんぶ贅沢な話に聞こえる。
まるで金持ちがゴージャスなレストランで食事中に、ほんの小さなほこりを店に見つけて騒ぐみたい。
望海にとっては、恋人の時間や関心をたった1人で独占すること自体、ものすごく贅沢なことだ。
ただ会いに来てくれればいい。
目の前にいるときだけでも、自分のことを見つめてくれて、抱きしめてくれるなら、それでいい。
彼が、それで癒やされて、幸せに感じてくれるならそれで十分。
開けた窓から、夕方の繁華街特有の、揚げ物と酒の匂いが入り交じった、なんともいえない空気が流れ込む。
彼を待っているこの時間は自分だけのものだ。
望海は、心の中をひたひたと満たしていく幸福な満足感に浸っていつまでも窓辺で夕暮れの空を見ていた。
ブン……とスマートフォンが震えて、メッセージが着信したことに気づいたとき、時計はすでに12時を回っていた。
ベッドに座ってテレビを見ているうちにいつの間にか眠りに落ちてしまっていたようだ。
テーブルの上でセットされたまま使われていない食器たちは、白々とした明かりの下で、物寂しげに光っている。
「ごめん、……いまメッセージ見た。
今日ずっと接待の飲み会で引っ張られてこの時間。
今度埋め合わせするよ」ごめんとあやまる顔のスタンプが続いて送られてきた。
誕生日は、たったいま終わってしまった。
それに気づいた途端、望海は急に叫びたいような衝動に駆られた。
ついさっきまでの幸福な気持ちはなんだったのか。
自分の今日1日は、なんだったのか。
佑にとっては、ただの平凡な1日でも、自分には1年に一度の特別な日だったのに。
「今日、会いたかった」そう打ってやめようとしたけれど、もう一言加えずにはいられない。
「誕生日だったから」ぽつりと、それだけ、空に放つ。
たぶん、このメッセージに返事はないだろう。
すっかり冷え切った惣菜を盛った皿を冷蔵庫から引っ張り出して、手づかみで口に押し込む。
高価な煮込み肉も、付け合わせのポテトも、インゲンも、いっしょくたに口の中でかみ砕かれて飲み込まれる。
どれも冷たく固まって、何の味もしなかった。
ハッピーバースデー、昨日の私。
30過ぎて、まだ実りのない恋をしてる私。
それでも、やっぱり、今ここにいてほしいのは、あの人でなしの冷たい男なのだ。
今この時間も、ほかの女を抱いているかもしれない、不実なあの男なのだ。
やっぱり、佑が好き。
この手を自分から放すことができない。
それが何より、絶望なんじゃないか。
望海は、ふと目を落としたスマートフォンのインスタのアプリをタップした。
もしや、今日の佑の行方が、わかるかもしれない。
わずかな、しかも絶望的な期待をこめて、サナエのアカウントをタップする。
昨日まではなかった1枚の写真が、目に飛び込んできた。
すべすべの光沢のある布が張られた小箱の中で光る小さな石。
まるで呪いの宝石のように、その石の写真は、無数の「いいね」に囲まれて燦然と輝いていた。
#サプライズ #プロポーズ #信じられないくらい幸せ 望海は、穴が開くほど、その写真を見つめ続けた。
写真の前後に何かないかと探したが、何もなかった。
ただ昨日までなかったそこには、今日新たに、昨日までとは決定的に違う輝かしい幸福な空気があった。
なぜ? 私の誕生日に? サナエだって、自分と同じように苦しんでいたはずなのに。
どうして、どうして、どうして、……そんな言葉ばかりがぐるぐると頭の中を回った。
足下からぐらぐらと崩れていくような気持ちに襲われた。
嫉妬ではなかった。
そんなことではなく。
佑が誰か1人を選んだ、という事実に打ちのめされたのだった。
今までは、自分だけではなく、ほかの女たちも特別ではない、みんな同じような扱いなのだから、と自分を納得させてきたけれど、誰か1人が特別だというなら、話は別だ。
彼の特別の座を、勝手に心の同志だと思っていたサナエが奪っていくのだとしたら。
佑が、ほかの女と自分を、サナエのために切り捨てるようなことになったら。
もう二度と佑に会えないかもしれない。
そう思ったらいてもたってもいられなかった。
望海は、部屋の中をぐるぐると歩き回って、爪をかみながら考えた。
いや待て、それでも、彼が結婚するのがサナエなのは、いいことなんじゃないか、と頭のどこかから声が聞こえてきた。
サナエは、佑の特別なんかじゃない。
それは、過去のインスタを見ていればわかることだ。
サナエだって、佑の浮気に悩んでいたはずだ。
佑がいない疑惑の夜を、たとえば望海を抱いているその夜も、苦しい思いを抱いて暮らしてきたはずだ。
サナエが、佑にとって本当の意味で特別ではないことは、その事実をもってすれば明らかではないか。
望海は、ようやく歩くのをやめ、ベッドにすとんと座り込む。
そうだ、サナエは、特別なんかじゃない。
佑は、何人もいっぺんに付き合っている女の中の1人と結婚するだけで、きっと結婚後も行動を改めたりはしないだろう。
サナエは、新妻になってもなお、ベッドで独り寝の夜を涙で暮らすのだ。
望海は、その発想にちょっとゾクゾクして、服のまま掛け布団に潜り込んだ。
もしも結婚した佑が、またこの部屋に訪れたらどんな気持ちがするんだろう。
その背徳的な考えは、たった一人で欲情するのに十分だった。
人のものになった佑。
その佑の指が迷いなく自分の体に触れることを想像して、望海は興奮した。
どうにもならない。
望海は、持て余す情熱の行方を探しながら、思う。
自分は、本当に頭がおかしいのかもしれない。
望海は、そう思いながら、シーツにうつ伏せに体をぴったりくっつけて目を閉じた。
ずっと欲しかった、プレゼントの中身佑が再び顔を見せたのは、それから2週間後のことだった。
もしや……と左手の薬指を見たが、当然そこには何もなかった。
サナエのインスタもあれきり更新されることはなく、山ほど贈られたお祝いのメッセージも宙に浮いたまま、何の返事もなされてはいなかった。
もしかしたら、あれは何かの間違いだったのだろうか。
部屋の戸口に現れた久しぶりの佑の姿に、望海は、ふとそんな考えさえよぎった。
佑は相変わらず、仕事の愚痴を一方的に話して、望海の作った夕食を食べ、望海に差し出されたハイボール缶を何本か飲んで、ベッドに腰掛けて漫画雑誌をペラペラめくり始めた。
何も、変わったところはなかった。
「佑、……最近何かなかった?」望海はさりげない風を装って聞いてみた。
だが、佑は「べつにー」と答えるだけだ。
「あ、そうだ!」急に佑が身を起こした。
「ごめん、こないだお前の誕生日の日ドタキャンして」佑は、かわいらしい目つきで心底すまなそうな顔をする。
「ホントはさ、いっしょに買いに行くつもりだったんだよな、プレゼント」え……?不意に、頭の中に、白い光を放つ石が浮かぶ。
ちょっとドキッとして、食器を洗う手をとめて振り返った。
「玄関に、棚を買ってやろうと思ってさ」佑はのんきな調子で続ける。
「お前んち、玄関せっまいじゃん。
そこに小さい靴の棚置けば、結構収納できると思うんだよな。
どう? いいアイディアじゃね?」佑は、手で括弧の形をつくって玄関を振り返る。
「た、たな……?」望海は思わず聞き返してしまう。
「俺の部屋にあるいらないサンダルとか置いといてさー、近所のコンビニとか行くとき履くわ。
便利だろ」佑はまだ自分のアイディアに勝手にうなずいている。
「今度、ニトリとか見に行こうぜ」佑はニカッと笑って望海を見た。
サナエにはダイヤの結婚指輪を渡すくせに、自分には、いらないサンダル置き場の靴の棚。
そう思うと、怒りを通り越して、可笑しくなってきた。
同じじゃない。
サナエと自分は同じだと思ったけれど、ちっとも同じじゃない。
佑が相手にする女の中にも序列があって、望海は多分、はてしなく下位ランクだ。
どうでもよくて、便利で、そしてやっぱり、どうでもいい。
男は、どうでもいい女には、金も時間も使わない。
ただただ、尽くされるのを享受するだけ。
そして、本当に喜ばせたい女のためだけに、使うのだ。
金も時間も、気持ちも。
望海は、佑をぎゅっと抱きしめた。
――――馬鹿なことだとは、わかってる。
そんなことはわかっているけど。
この、人よりちょっと高めの体温が好き。
このなめらかな肌にさりげなく香る体臭が好き。
こうして、抱きしめている間に感じる胸の鼓動が好き。
それだけで、十分だ。
望海はそう自分に言い聞かせた。
それ以上は望まない。
自分は、佑にとっての下の下でいい。
多くを望まない。
いっそ、人間でなければよかったのに。
犬か猫だったら、ずっとそばにいて、かまわれなくても気にしなくて、ただ愛しているだけの存在になれたのに。
望海は、悲しい気持ちを振り払うように微笑むと、佑に言った。
「棚、うれしい。
今度いつ見に行ける?」サナエの結婚と、彼とのその後結局、佑は、結婚することはなかった。
すっかり、サナエと結婚する佑に、都合よく扱われる女である自分、という妄想に酔っていた望海は、いつ結婚の話を切り出されるかそわそわしていたけれど、何ヶ月経っても、そんな話が出ることはなかった。
そして、10月の天気のいい大安の日曜に、サナエは結婚した。
サナエが結婚したのは、佑とは似ても似つかない、丸ぽちゃ童顔の歯科医だった。
久しぶりに更新されたインスタで、2人がセブ島で結婚式を挙げる姿を見た。
2人は幸せそうに、ビーチの結婚式場で、白くはためく布きれの中で笑っていて、数え切れないほどのハッシュタグがその横に並んでいた。
その中に1つ、#幸せってこういうこと というのがあったのが、目に焼き付いた。
あれほど頻繁に更新されていたサナエのインスタは、それきり、ふっつりと更新をやめた。
だから、その後サナエがどうなったのかは知らない。
佑のケータイからもサナエの名前は消えてしまった。
そういえば、サナエが結婚した日は、佑は望海の部屋でめずらしく深酒をしていた。
その日が結婚式の日だったというのは、あとから振り返ってわかったことだ。
妙に佑が酔っ払って絡んできたので不思議に思って覚えていた。
「どうせさ、みんな俺から去って行くんだよ。
お前もな。
いつか俺に愛想尽かして行くんだよ」そんなことを言っていた。
「そんなことないよ。
いつまでも佑のそばにいるよ。
」望海はそう言いながら、佑の頭を抱きしめた。
「信じられねえ、誰のことも」「信じなくてもいいよ、そばにいる」その時は、感極まって涙ぐんでしまったけれど、今思えば、あれはサナエについて言っていたのだ。
相変わらず、望海の恋は、どこか喜劇だ。
それでも、自分はやっぱり、最後の最後まで佑のそばにいるんだろう、と望海は思う。
たとえ、下の下でも。
どんなにいい加減な扱いをされても。
自分の幸せは、佑のそばにいることだから。
今日もまた、佑を待っている間に、カレーがたっぷり煮込めてしまった。
スマートフォンにメッセージが来る。
今日は、佑の誕生日だ。
期待しない、と自分に言い聞かせながらメッセージを見る。
期待なんかしなければいいのだ。
期待するから恋は苦しくなるのだから。
ただそこに、愛しい人がいるだけで、その瞬間だけの幸せを見て生きていこう、と望海は思いながら、手を拭いてスマホの画面をタップした。
(恋愛部長/ライター)(ハウコレ編集部)