ハウレコ

【小説】片羽の恋人/恋愛部長

若い頃の美しさとは、何も知らないがゆえの傲慢さの所産だ。

自分が他人から、中途半端にしか愛されないかもしれない、なんて、絶対に思いつくはずもない。

自分は人生の主役であり、他人の人生でも同じように主役のように光り輝いているものだと、あの頃は、思っていた。

何のてらいもなく、無邪気に。

writer:恋愛部長model:井上怜愛うっかり開いてしまったSNS真矢は、朝からため息をついていた。

早朝から、担当役員が出かけるのに付き合わされて、出社する羽目になり寝不足だから、だけではない。

役員のハイヤーを見送った後、とくに急ぐ仕事もなく、誰もいない秘書課のデスクで、ついうっかり、いつものSNSのページを開いてしまったことが多分にある。

久しぶりに新しい写真がアップされ、日に焼けた健康そうな笑顔が飛び込んできた。

友人たち家族といっしょにBBQに出席する“彼”。

その膝の上には、はじけるような笑顔の、彼の面差しをそっくり受けついだ幼な子。

典型的な幸せな休日の景色。

自分だって、数年後にはこういう世界に入っているんだと、あのころは信じて疑わなかったのに。

実際は、30過ぎてもまだ独身だ。

何が間違ったというのだろうか。

真矢は、ぱたりとノートパソコンを閉じる。

自分が今いる場所が、なんだか現実とは思えなくなってきて、ギラギラ照り付けはじめた初夏の朝日に向かって、目をこすった。

モテ期というのがあるのなら、それは間違いなく、女子大に通っていたあの4年間なんだろう。

たまたま隣に男子の多い有名大学があったおかげで、女子大とはいえ、彩りに欠けることはなかった。

それどころか、隣の大学の男子たちは、自分の学内の女子よりも、隣の女子大の生徒たちを優遇する伝統があったので、入学式からしてすでに、サークル勧誘で大勢の男子学生が、門の外に暑苦しい人だかりをつくっていた。

真矢は、友人とともに、その勧誘の嵐の中で、いくつかのテニスサークルや、スキーサークルのコンパに顔を出し、いずれのサークルでも、まるでお姫様かのような歓待を受けた。

「まやちゃん、絶対にうちに来て! 女子大の子は、コンパのお金もタダだから!夏合宿は、女子だけ特別に、キレイなコテージ用意するし!」「まやちゃん、また部室においでよ! いつでもお茶ご馳走するから!」「まやちゃん! とにかく名前だけでも籍置いておかない? イベントのお知らせ送るから! 来れる時だけでいいから所属しててよ!」今まで、共学の高校にいたので、こんな風に特別扱いされたことはなく、最初は面食らってしまった。

でも、すぐ慣れて、この親切で楽しくて、それなりに頭もいい男子たちが、自分をちやほやするのを軽くいなすようになっていた。

女は扱い1つで、いくらでも変わるのだ。

あの頃は、本当に、自分がものすごいかわいくて魅力的な女の子になったような気がした。

とりあえず所属した、アート系のサークルと、テニス系サークルの両方で、真矢はまるで花から花へと飛び回る蝶のようだった。

サークルの幹事の先輩が数人、真矢に交際を申し込んだ。

同級生の中でも、とくに声が大きくて目立つ男子が名乗りを上げた。

彼らは飲み会で勝手に真矢を巡ってつばぜり合いをした。

本人の意思をよそに、男同士で騒ぐさまを、苦笑しながら眺めていた真矢だったが、実は、気になっている相手はほかにいた。

アート系サークルにちょくちょく顔を出していた、同級生の東野だった。

東野は、顔立ちはそこそこ整っていたが、ひどくシャイなところがあって、女子たちにはなかなか声もかけられない性格だった。

いつも男同士でつるんでいて、数人固まっては、真矢に声をかけてきた。

お茶に、ラウンジに、美術展に。

交わる視線東野が自分を好きらしいと友人から聞いたのは、1年生の終り頃だった。

1人で真矢を誘うこともなかったし、会話だってグループメッセージでしかかわしたことはない。

だから、最初に聞いた時は、ちょっと意外な気がした。

でも、そうなのかと思って見てみると、東野はいつも、さりげなく傍にいて、会話に混ざって相槌を打ったりしていた。

ふと気づくと、こちらをじーっと見つめていたりする。

その大きな目は少し青みがかっていて、とても綺麗だった。

真矢は、東野と視線がかち合うと、あわててよそを見た。

他の、ぐいぐい押して来る男子にはない、繊細そうなたたずまいや、静かでナイーブな話し方が、妙にまぶしく感じられた。

東野と、初めて2人で出かけたのは、2年生になってからのことだ。

突然誘われて、ミニシアター系で公開されていたアート系の小品を観に行った。

とてもかわいらしい色遣いの映画で、繊細な点描イラストを描くのが趣味の東野らしいチョイスだった。

映画が終わった後、2人で、本屋の中にある喫茶店でお茶をした。

会話はあまりはずまなかったけれど、黙りがちな東野の前で、何も考えずにぼーっと外を見ている時間は、なぜかとても心地よかった。

「あのさ、……」東野は別れ際に、ためらいがちに言った。

「あの、真矢ちゃん……俺……」「え……」真矢は、ドキッとして、東野を見つめた。

もしも今、交際を申し込まれたら。

きっと答えはYESだ。

真矢は期待に胸を膨らませて東野の言葉を待った。

2人の間のこのやさしい空気を、きっと、これからゆっくり育んで行ける気がした。

「いや……あの、……また……会える?」東野は、顔を赤くしながら、そう尋ねた。

真矢はその言葉に、がっかりした気持ちを隠し切れなかった。

幸せな未来が目の前に見えているのに、なおもハッキリしない東野に、少し腹立たしい気持ちにもなった。

そのせいで、やや冷淡な言い方で答えてしまった。

「ん……また、今度ね」その言葉の調子に、東野はハッとしたような顔をした。

その目に、おびえたような色がありありと浮かんでいる。

急にニット帽を目深にかぶり、「ごめん。

じゃあ!」とだけ言うと、逃げるように身をひるがえした。

あっという間だった。

「あ、……東野君?!」真矢があわてて引き留めようとしたときには、東野は、すでに地下鉄の入り口に走り込んでいくところだった。

「なにあれ。

……もうちょっと、押してくれないと、こっちもどうにもできないじゃない……」真矢は、呆れたようにため息をついた。

でもその時は、まだ、東野と自分の未来が、すでにまったく別の方向へ走り出してしまったとは気づいていなかったのだ。

いらだち、そしてその後真矢が東野を振ったらしい、と言う噂が、真矢自身の耳に入ったのは、それから何ヶ月もたってからのことだった。

真矢を狙っていた、サークルの先輩が、面白そうに真矢に聞いて来たのだ。

「え、……なんですか? それって、東野君が言ったんですか…?」「俺は本人から聞いたわけじゃないけど。

なんか、東野のやつが玉砕したってやけ酒飲んでた話、聞いたよ~。

真矢ちゃん、こっぴどく振っちゃったの?」真矢の肩に手を回して、親しげに顔を寄せて話しかけてくるのを、真矢はさりげなく笑顔でかわしながら、いらだちを隠せずに言った。

「そんなのウソです。

だって、私、告白もされてないですし」「あれ~? 東野が、付き合ってほしいって言ったら、社交辞令であしらわれたって聞いたけどな~。

でもま、東野ってオタクだしね~。

真矢ちゃんの好みじゃないでしょー?」真矢は、顔色を変えて、自分のケータイを取り出した。

すぐに、東野に確かめなくては、と思った。

でも、焦ってなかなか東野の名前が出てこない。

「ああ、東野のことはね、もう気にしなくていいよ! 真矢ちゃんに振られて落ち込んで、中山に相談してるうちにさ、……あいつらデキちゃったんだってよ!」下卑た笑い方で、その男は噴き出して見せた。

ケータイを操作する真矢の指が、凍りついた。

中山恵子。

それは、東野と同じ大学の同級生で、ソフトボールをやっていたせいか肩もがっちりとして声も低い、男っぽいタイプの女だった。

「中山だけは女じゃない」なんて言われながら、東野とも2人きりで飲み明かしたりしている仲だと聞いていた。

中山は、東野をよく、「あんたしっかりしなさいよ! 男のくせに!」なんてどやしつけていたけれど、それはまるで姉と弟のようなもので、まさかそこに恋愛感情があるとは思っていなかった。

あの、繊細なアーティスト気質の東野が、まるで男のような中山と。

そんな仲に。

想像しただけで、ショックで吐き気が襲ってきた。

恵子は、もしかしたら自暴自棄になった東野に母性本能をくすぐられ、憐れんで抱いたのだろうか。

東野は、それで、自分を想ってくれる女の温かみを知ったのだろうか。

その後、そのサークルには足が遠のいてしまったけれど、一度だけ、遠目に、東野と中山が腕をからませて駅前を歩く姿を見た。

どこから見ても仲睦まじいカップルで、お互いに頬を寄せて2人だけの世界に浸っていた。

中山は、以前とは少し印象が違う、薄手のスカートに身を包み、髪も伸びて女らしくなり、別人のように綺麗になったように見えた。

とても幸せそうだった。

2人に声をかけられるはずもなく、真矢は身を隠すようにして逃げた。

それから、大学を卒業するまでに、真矢は、別の2人の男と付き合い、それぞれ味気ない形で別れた。

全然好みではなかったけれど、ほんの少しだけ、東野に似た細面の年上の男と、それから、熱意だけでぐいぐい押してきた、熱血漢の後輩の男。

「真矢ちゃんは、クールだね……」と、2人ともから言われた。

確かに、大して好きでもない男には、女はとことん冷淡になってしまうものだ。

抱きしめられていても、ついその腕から逃れたくなってしまう。

身体は正直だ。

気づけば、30歳大学を出て、保険会社に就職し、秘書課に配属された。

周りは女ばかりで、主な仕事は、親よりもずっと年上の役員たちのお世話。

大学の時同様チヤホヤはされたが、恋のときめきとは縁遠くなった。

そして、気づけば、30歳。

付き合っている男はいる。

が、その男には、よくある話だが、帰る家庭があり、子どももいる。

どこへも行けない関係が、ここ数年緩やかに続いている。

別れたほうがいいのは百も承知だが、怖くてその手が離せない。

もしも、この人を失ったら、自分は本当に独りぼっちになってしまう。

何もかもなくしてしまう。

そんな恐怖感がある。

でも、もしかしたら、その「彼」は、自分と「付き合っている」という自覚もないのかもしれない。

たまに思い出したように真矢のほうから連絡して、食事をして、さびしいからと自分から家に誘う。

彼は、困ったような優しいまなざしで、真矢の言うことを聞くだけだ。

それを自分は利用している。

そう思うと、また悲しい気持ちに襲われる。

どうして、こんなことになっちゃったんだろう。

本当は、もっとずっと幸せな未来が、はっきりと見えていたはずなのに。

あの頃の私には。

大学時代の男友達が、突然連絡を寄こしたのは、そんなある日のことだった。

女友達の1人から連絡先を聞いた、とその男は言った。

そんなに印象には残っていなかったが、大学時代はまったく垢抜けなかった男が、大手商社に入ってすっかり遊び慣れた風に変わっていて、内心驚いた。

男も、周りの人間からの扱い1つでここまで変わるようだ。

「飲みに行こうよ」と、その男、加藤は軽く誘ってきた。

「今週だったら、水曜。

外出先で仕事終わりだから、渋谷がいいかな」断るすきもないうちに、真矢は加藤と食事に行くことになっていた。

加藤に指定された水曜日、仕事を終えて渋谷に行くと、坂を上っていった裏路地にある隠れ家めいたフレンチビストロの窓際の席がリザーブされていた。

「真矢!久しぶり。

やー変わらないな!」時間通りに現れた加藤は、すっかり貫録のある風情で席に着くと、親しげに真矢の顔を覗き込んだ。

「久しぶり」真矢は値踏みするように加藤を見る。

左手の薬指。

銀色の輪が光っている。

内心ガッカリする気持ちは否めない。

いい男は本当に、売り切れるのも早い。

大学時代は、全然気づかなかった。

自分の周りにいるのが、「市場」に出せば、すぐに買い手がつくような「物件」ばかりだったとは。

加藤は、手慣れた手つきでワインリストにさっと目を通し、楽しそうに吟味しながら乾杯用のシャンパンと食事用に白ワインをオーダーした。

名の知れたワインだったので、「えっ……」と思ってリストをのぞこうとすると、手のひらで遮られ、「ああ、気にしないで、俺のおごりだから。

」と、加藤はさらりと言う。

同年代の男性とデートするのは久しぶりだし、こんな風に丁寧な扱いをされるのも懐かしく、心が浮き立つ。

見たくない、痛い現実1時間もすると、すっかりワインのボトルも空き、隣りあわせの席で飲んでいる加藤ともくだけた空気になってきた。

「真矢はさ、大学の友達とは会ってる?女子たち、とか」ほんのり頬を染めて真矢は首を振る。

「あんまり会ってないなー。

一応facebookとかインスタでつながっている子はいるけど‥。

加藤君たちはどうなの?」加藤は、大学時代のようなはにかんだ笑顔でうなずく。

「俺たちはたまーに会ってるよ。

横山とか田中とか。

あと、あ……東野とか? 覚えてる?」真矢は何でもなさそうに、目を伏せる。

「あー、……経済学部の子だっけ? 覚えてるよ。

彼いま、どうしてるの?」「東野は、いまビール会社の営業だよ。

あいつ、営業なんかできるのかって思ったけど、案外ハマってるんだよな。

知ってる? わりとすぐ結婚してさ。

すでに子持ち。

ホラ、大学時代に付き合ってた中山と結婚したんだよなー。

知ってた?」真矢は震える指を必死に抑えながら、にっこり笑う。

「ああ、そっか。

2人は結婚したんだったっけ。

昔から、中山さんと東野君お似合いだったよね」苦い想いがどっと押し寄せてくる。

あの時のこと、何度後悔したか知れない。

手を離してしまった自分。

彼を引き留められなかった、意気地なしの自分。

彼を失ってから、彼以上に心が動く男には出会ったことがない。

条件で見ればいくらでもいい男はいたけれど、やっぱり心がシンと冷めていて、動かないのだ。

東野と中山の話を聞くのはしんどかった。

できれば耳に入れたくなかった。

何とか話題を変えようと、一生懸命を頭を巡らせていると、加藤は、そっと、椅子の上の真矢の手に自分の手のひらを重ねた。

「東野さ、また今度子どもが生まれるんだってよ。

もう2人目だよ。

早いよなー。

ああいうまじめなタイプは、どーっと迷いなく行くよな」その言葉に、いっしゅん、頭が真っ白になった。

見るとすぐ近くに加藤の顔が迫っていた。

「まだまだ、遊んでいたいけどな、俺は」じっと真矢の目を見つめて、加藤はささやいた。

これって、つまり、そういうこと? 真矢はぼんやりとした頭で考える。

飲み過ぎたワインのせいなのか。

身体が麻痺しているように動かない。

加藤の体温が近づいてきた。

重ねられていた手のひらが、腰あたりに回っている。

「いいだろ? 俺だって、大学時代から、真矢のこと狙ってたんだから……」そのままキスされそうになってハッとして真矢は身をよじる。

高いスツールから慌てて飛び降りるように席を立った。

「ごめん、加藤君、今日は帰る!」加藤は、それを見て舌打ちでもしそうな顔をした。

「なんだよ、俺じゃダメなわけ? お前、付き合ってんだろ? 俺知ってんだからな」真矢はサッと顔色を変えた。

たまらなくなってバッグをかき寄せると、店を飛び出した。

加藤は、知っていたのか。

真矢が不倫をしていることを。

だから、真矢を誘ったのか。

自分も行けると思ったのか。

速足で裏路地を歩くと、いつもより高いヒールのかかとが痛い。

久しぶりのデートだ、なんて浮足立った自分が馬鹿だった。

ふと見上げれば、すぐそこにホテル街のけばけばしい電飾が踊っている。

悔しくて涙がこぼれてきた。

もう自分は、あの頃の自分ではないのだ。

ちやほやされて、お姫様のように大事にされていたあの頃とは。

ガラスの靴は転げて割れて粉々になってしまった。

今の自分は、あの頃の思い出を必死にかき集めているだけの、ただの滑稽な灰かぶり姫なのだ。

決別の日真矢は、バッグから、スマホを取り出した。

“彼”に会わなくては、と思った。

今夜、この惨めな気持ちの今だからこそ。

会わなければ、と思った。

彼は、いつものように、真矢のメッセージからしばらくして、メッセージの返信ではなく、電話をかけてきた。

それは彼の癖なのか、それとも、あくまでも自分の痕跡を真矢の手の内に残したくはない、という慎重さなのかは分からない。

でも妙に几帳面な性格で、メッセージを無視したりしたことは一度もない。

「どうしたの?」落ち着いた低い声。

この声が夜の底に響くのを聞くのが好きだ。

「会いたいの。

今から会えない? 外で、会いたい」電話の向こうで息をのんで、ちょっと困ったような沈黙がある。

でも、彼はきっと拒まない。

それを真矢は知っている。

「わかった、いまどこ?あと1時間したら行くから。

待ってて」彼は子どもをなだめるように言った。

その電話の向こう側で、甲高い幼い子どもの声が聞こえた気がした。

膝の上に乗っていたあの子。

彼によく似た無邪気な笑顔の。

胸がチクチクと痛い。

彼は、ちょうど1時間後に姿を現した。

深夜営業の喫茶店に入り、念のため、誰かに会ったとき用に、2人の目の前に書類を広げる。

こうしておけば、仕事の相談で、と言えるから。

彼は、そういうところは細やかな気遣いをするのだ。

「お酒、飲んできたの?」彼は柔らかい物腰で尋ねた。

責めるわけでもなく、ただ尋ねる。

本当に子どもをあやすようだ、と思う。

そんな風にされるのが好きだった。

ずっと、彼の困ったような視線の中で守られていたかった。

「あのね、私ね、昔好きだった人がいたの」真矢はぽつりと言った。

「でもね、彼は、私が彼のことなんか好きじゃないって思い込んで、それで、別の人と付き合って、それから結婚したの」彼は黙って、コーヒーに口をつけた。

「そうなんだ……。

その男は、馬鹿だね。

」「私も、彼に伝えられなかったの。

好きだって。

変なプライドみたいのがあって。

私を好きなら、もっとちゃんと来てくれればいいのにって、思ってた」「それで?」「私は、そこにずっと立ち止まってた。

ずっとずっと後悔して、あの時、私がちゃんと気持ちを伝えてたらってことばっかり考えて。

もしそうだったら、いまどんな人生だったのかなって。

もしかして、結婚して、子どもなんかいたかなって」「そう……」「でもね、そんなことはないんだよね。

私は、あの頃に戻りたいだけで、今の自分なんか違うって思いたくて、なんていうか、かりそめの人生?を送ろうとムキになってるだけなんだって。

わざとどこへも進まないで、頑固にここから動かないでいるだけなんだって。

…気が付いちゃった」彼は、まぶしそうに目を細めて、真矢を見つめた。

「そうなの?」「うん。

だから、私、もうあなたに頼らないことにする」真矢は鼻の奥がツンとしてきたけれど、涙は流すまい、と思った。

決して泣いちゃダメ。

最後に、彼に、自分の笑顔を覚えていてもらいたいから。

「ずっと利用しててごめんなさい。

私は、今の自分の姿を見たくなくて、あなたに頼ってた。

でも、こんなことしてても何にもならない。

私は、もう卒業しないといけないの。

過去や、あなたから」彼は困ったような眉のまま、ふわっと、とても綺麗な笑顔を見せた。

そんな風に、静かに笑う顔が好きだった。

「あなたが、私を特別扱いしてくれるから、私ずっと、甘えてた。

でももうおしまい。

あなたは、あなたの生きる世界に戻ってね。

ずっと、付き合わせてごめん……」「真矢ちゃん、俺、……」彼は、何かを言いかけた。

うるんだ目で首をかしげて真矢を見た。

彼もまた、涙をこらえているのだろうか。

「いや、うん……そうだね」もしも、いま彼が、嫌だと言ってくれたら。

今までのように会い続けたいと言ってくれたら。

それを拒むことはできなかっただろう。

今この瞬間さえ、すべてを覆して、彼の手を取り、抱きしめてしまいそうなのだ。

嘘だと言いたい。

このままずっと同じように心地よい関係を続けていきたい。

彼に守られて、生きていきたい。

でも……その先に、彼の人生は、はっきり鮮やかに見えるのに、自分の人生はぽっかりと空いた空洞しか見えない。

ついにこらえていた涙が一粒、零れ落ちた。

行かなくては、と思った。

「じゃあ行くね」彼は、黙ってうつむいたままだった。

真矢は、レシートをつかむと席を立った。

うなだれる彼の首筋が、まるで鳥のように美しいと思った。

「2人目、おめでとう」彼の肩がふるっと、震えた。

「さよなら、東野君」店を出ると、あたりは生ぬるい夏の夜だった。

スーツ姿の酔っ払いが道端に倒れこみ、安らかな寝息を立てていた。

どこからともなく、ギターを弾き語る若者の歌声が聞こえる。

真矢は、頬を伝う涙をぬぐうこともせず、ただ前へ前へと歩き続けた。

どこへ向かっているかわからない。

でも、きっと、どこかへたどり着けるはずだと思う。

この夜は、きっと新しい朝へつながっているはずだ。

真矢はそう思いながら、足をまた一歩、前へ踏み出した。

(恋愛部長/ライター)(オトナのハウコレ編集部)

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