愛せない女子は愛されない。ってことを知るには「遊びの恋」もアリだと思う
主体的に愛することができない人は、誰からも愛されないと言われます。
「わたしのことを愛してよ」とばかり言う人は、誰からも愛してもらえず、反対に、みずから誰かのことを愛する人は、誰かからすごく愛される――ここにひとつの愛のパラドックスがあります。
というところまではきっと、誰もがわかっていますよね。
わかっているけど、でも主体的に誰かのことを愛して、万が一失敗したらイヤだなとか、主体的に愛することに必ずついてくるリスクをとるのがイヤだなとか、そういったことがネックになっていますよね。
writer:ひとみしょう■女子にとって切実な問題をさて置きすぎなんですよね誰かのことを主体的に愛そうと思えば、かならずリスクがついてきます。
こっちが愛しても、相手がまったく振り向いてくれないかもしれないというリスクがありますよね。
主体的に愛した結果、彼と相思相愛になったはいいけど、じつは彼はフリーターで結婚相手に向いてない…。
けど、そう思った時はもう抜き差しならない状態にあった、というのもリスクかもしれない。
でも、こういう問題をさておき、「主体的に愛さないと誰からも愛せないので、主体的に愛しましょう」といった意見が世の中に多くないですか?女子にとって切実な問題をさて置きすぎじゃないかと思えるほど、「主体的に愛すること=正しいこと=正しくない人は幸せになれない!」なんて論調ばかり。
正直うんざりしちゃいます。
■主体的に愛する=ちょっと悪いことをやってみる主体的に愛するとか、主体的に生きるとか、そういうことが道徳的・倫理的に「正しい」とされているので、学校の先生の子どもが「学校でもおうちでも正しいことを言われ続けたら生きていること自体がイヤになる」みたいに、恋愛がイヤになる人だっているでしょう。
でもでも、主体的に愛するというのは、なにも「リスクをとって勇猛果敢に正しく愛しなさい」ということじゃなくて「ちょっと悪いことをしてみよう」という、とてもチャーミングにしてPOPなことなんです。
■知っておきたいのは「あなたにとっての愛の範囲」です誰しも「愛の範囲」というのを持っています。
どういうことをやるのが愛するということなのか?という基準を持っています。
たとえば彼氏にときどきご飯を作ってあげるのが愛情だと考えている人は、それがあなたにとっての「主体的な愛し方の枠」です。
そういう枠の端っこのほうで「彼氏にバレなければ浮気してもいいだろう。
だってわたしは他の男子とも寝てみたいと思っているのだから」と思って浮気して、それが実際にバレなかったとすれば、その女子にとっては、浮気することも主体的に愛することの1つとなるのです。
がしかし、たいていの場合、浮気はバレます。
バレることによって、彼女は自分にとっての愛の枠を設定し直します。
浮気をしたら彼氏はものすごく傷つくんだということを知ります。
頭で知るのみならず、カラダ全体で痛いほど知ります。
だから愛の枠を変更します。
反対に、「痛いほど知る」ができなかった人は、複数の男子とつまみ食い的に遊ぶことが楽しいのだろうから、特定の彼氏をつくらずに遊ぶといいです。
遊ぶことを通して「ちょっと悪いこと」を経験すべきです。
その結果、あなたにとっての愛の枠とか、愛の範囲が自然と見えてくるから。
■誰も反論できないことは「ちょっとまちがっている」恋愛に限らず、今の世の中は、オトナたちが正しいことを言い過ぎなんですよね。
正しくて、誰も反論できないことを言い過ぎです。
たとえば、浮気はよくないという言い方。
たしかによくないことなのだろうけど、それを経験しないと「愛の範囲」が見えない人だって、世の中には大勢いるんです。
昔からいるし今もいます。
「主体的に愛しましょう」という言い方も同じなんですよね。
主体的に愛するというのは、倫理的な生き方という面からみれば、「すべきこと・正しいこと」です。
でも、正しいことの裏側には、「ちょっと悪いこと」がくっついているのです。
簡単にいうと、ちょっと悪いことをしないと「なにが正しいことなのかが見えない」んですよね。
主体的に愛しましょうなどと説教臭いことばかり言う人とは、悪いことをしたことのない人です。
そういう人の言説に惑わされては、人は幸せになれないのです。
(ひとみしょう/作家)『今夜はちょっと、恋の話をしよう』(ハウコレ編集部)