浅利慶太さん、鹿賀丈史と市村正親は「ステーキとクレソン」 個性を見抜く慧眼
(左から)鹿賀丈史、市村正親(C)ORICONNewSinc.劇団四季創設者の一人で劇団代表も務めた演出家・浅利慶太さんが13日、85歳で亡くなった。
訃報が伝えられたきょう18日、都内で劇団四季出身の俳優・鹿賀丈史(67)と市村正親(69)が会見を行った。
浅利さんは同じミュージカルでデビューした2人を「ステーキとクレソン」になぞらえながら名優に育て上げた。
鹿賀は1973年に『イエス・キリスト=スーパースター』(現在は『ジーザス・クライスト=スーパースター』)で主演デビューし、そこにオーディションを受けて出演したのが市村。
デビューが一緒の2人は常に“太陽と月”のような存在だったという。
常に比較され続け、市村は「鹿賀がステーキなら、お前はクレソンだ」と言われたという。
「当時は鹿賀丈史が正義だった。
『ウェストサイド物語』をやれば丈史がトニーで僕がベルナルド。
『ジーザス』やればヘロデ。
『ベローナの恋人たち』やればシューリオ。
だいたい大きい役はあっちで、周りに僕がいる」と振り返る。
ただ「クレソンはステーキになくちゃいけないもの。
太陽があって月があるんだなと思った。
太陽じゃなくていい、月の演技がある」という考えに至ったことを明かした。
市村には「他人の時計をのぞくな」という教えも。
浅利さんは「人には人の時計のサイクルがある。
お前にはお前の時計がある。
人の時計を見ると比較してしまう」と腐らずに地道にやる大切さを説いた。
今でこそ、市村は名優と呼ばれるが、その道を切り開いたのは、ほかならぬ浅利さんだった。
一方、鹿賀はスター街道を歩み続け、劇団を引っ張った。
それでもストレートプレイや映画に出演したいという思いが募り、退団する意向を浅利さんに伝えると「いいじゃないか」と引き止められなかったそう。
「それまで主役をやらせていただいて恩義がある。
自分の役者として道を進みたいと思った。
生意気ながら言わせていただいたら許してくれた」と深い懐に感謝の言葉が何度も口をついた。
鹿賀は最後に会った際にきつい言葉をかけられたが、直後に謝罪の手紙が届いたそうで「『ごめん』と書いてあった。
劇団をやめて、ずいぶん時間も経っていましたけど、心にとめてくださってくれていたのかと思って…。
そのときは感謝しました」と目からあふれるものが止まらなかった。
自身の芸名は浅利さんが名付け親。
「金沢出身なものですから『かがにしろ』と簡単につけられた」と笑いつつも「鹿に賀正の賀。
なぜ鹿かというと『鹿のように俊敏で澄んだ目をしていろ』という思いで鹿とつけてくださった」と由来を説明。
深い意味が込められた名前を、今も変わらずに使い続ける。
「その言葉は忘れられない。
今も、その気持ちを大事にしたい」と浅利さんに約束した。
数多くの演劇人を育て上げ、世に送り出した浅利さん。
その偉大さに鹿賀も市村も感謝の言葉が尽きなかった。
浅利さんは慶應義塾大学文学部仏文学科在学中の1953年に、日下武史さんら10名で劇団四季を創立。
以来、劇団代表・演出家として、ストレートプレイからミュージカルまで、ほぼ全作品のプロデュースや演出を手掛けてきた。
2014年に劇団代表職を退いてからは、活動の拠点を、現在の浅利演出事務所へと移し、『浅利慶太プロデュース公演』として、計12公演の演出を手掛けた。
紀伊国屋演劇賞、菊池寛賞、読売演劇大賞、ドイツ連邦共和国一等功労勲章、イタリア・アッビアーティ賞、中国政府友誼賞他、国内外での受賞多数。
数多くの俳優、スタッフを発掘、育成し、日本の劇場文化を大きく発展させた。
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