「ありのまま自分を愛してほしい」というワガママ【トイアンナのしくじり恋愛】
こんにちは、トイアンナです。
「ありのままの自分を愛してもらえる」という言葉の美しさ、素敵ですよね。
私の嫌なところもひっくるめて愛してね、私も愛するからという取引は一見正当に見えますよね。
けれど「ありのままの自分を愛してよ」がすさまじいワガママであることを今、ひしひしと痛感しています。
というのも私、いま2日間も風呂に入れておりません。
仕事のスケジュールが急遽前倒しとなり、朝4時42分に原稿を書いています。
肌はボロボロ、髪はバサバサ。
この状態の自分を愛してくれだなんて、とてもじゃないけど言えません。
writer:トイアンナ愛は、ナマモノの自分をさらすことじゃない「ありのままの自分」というのは、えげつないものです。
風呂に入れない日もあれば、機嫌が悪すぎて当たり散らしてしまう日もあります。
若かりし頃に想像していた「ありのまま」は、せいぜい美しくない自分のことでした。
まさか風呂に入れないという意味で物理的に汚い自分だとか、ストレスが溜まりすぎてカラオケで倒れるまで歌っている自分が生まれるなんて、思ってもみませんでした。
でも、10代の頃はそんな自分まで愛されたいと願ってしまった。
とんでもないワガママでした。
同じことをしているから「愛せる」わけじゃない10代へさかのぼると、私は勉強や仕事へまい進していました。
外見がボロボロだったり、不機嫌になってしまう日もありました。
けれどそんな自分を好きでしたし、肯定してもらえると信じていました。
私自身、彼が仕事や学業で忙しいときも全力で肯定していたからです。
けれど、一見「フェア」な関係は続きませんでした。
ストレスを受け止められる人間が、家庭から消えてしまったのです。
たとえば、アルバイト先のストレスを八つ当たりしてしまったとしましょう。
本来であれば余裕のある方がクッション材になって怒りを受け止め「まあまあ」と落ち着かせる役割を果たせたでしょう。
けれど「お互い不機嫌なときは、ありのままに怒っていい」という取引には、ストレスの受け止め役がおりません。
私たちは壁打ちテニスのようにストレスをぶつけ合って、解消されない不満を抱くだけでした。
愛するからこそ、自分を飾り付けしようありのままの姿を愛せるなんて、うそです。
当時の私は「ありのままのストレスをぶつけ合う醜いカップル」でした。
私はむしろ、愛するからこそ「ありのまま」の自分ではなく、相手が気持ちよく過ごせるようコミュニケーションを工夫すべきだったのです。
たとえば「いま仕事で忙しいんだから察してよ!」という代わりに、「ごめん、いまちょっと手が離せなくて。
お皿洗いだけやってもらえる?」と言えたなら。
それはありのままではないでしょうが、愛のあるコミュニケーションだったでしょう。
愛するからこそ、ありのままではない自分を見せよう。
きちんと飾り付けた、丁寧なコミュニケーションをしよう。
そう学べたのは、残念ながら当時の彼と破局してからでした。
今日の私はシャワーを浴び、ヘアサロンへ行きます。
ささやかですが、これが私の「愛する人へありのままの自分をぶつけてしまわない」抵抗なのです。