【小説】忘れられない男/恋愛部長
writer:恋愛部長model:地田華菜(チダカナ)忘れられない男はじめての男は忘れないって言うけど、それはちょっと不正確かもしれない。
正しくは、はじめて好きになって、振り向いてもらえて、寝た男、だと思う。
大山香織は、ため息をついた。
街中は、ハロウィンが終わった途端、手のひらを返したように、クリスマスイルミネーションに衣替えしている。
一晩明けただけで、まるで違う街に来たように、キラキラまばゆい光が目に突き刺さる。
あれから1年もたっているのに、1ミリも忘れられない。
「別れてしまえば、もう苦しむことなんてない」と思っていた。
だけど、思い出の中の彼の横顔は、日を追うごとに鮮明になり、声の調子も、口癖も、ふわりと匂うローションの香りさえも、体に残ったまま、消えることがない。
「どうしてまだこんなに好きなんだろうなぁ……」彼は、はじめに会った時は、好みのタイプだとは思えなかった。
女性に対して少しなれなれしすぎるし、流行を追いたがるところも、急にはしゃいで見せたり、人の目を気にしすぎるところも、あまり好きじゃない。
香織は、物静かなたちで、あまり多くの人と交わるのは嫌いだ。
流行なんて、ぶっちゃけどうでもいい。
そんなタイプだから、大学でも、デートだ、イベントだ、とリア充な毎日を送ってSNSをにぎわせている連中とは付き合いもあまりなく。
たまに飲み会などに誘われて、うっかり出向いては、心の底から後悔することが多かった。
友達からは、「そんなんじゃ彼氏できないよ!」と怒られていたけれど、仕方ない。
たとえ誰かを好きになっても、誘うことはおろか、近づいて話しかける勇気すらなかった。
それまで好きになった人たち……思い浮かべれば、数人はいた気がする。
大学のゼミの助手さん。
サークルでよく会う同級生。
いつも行く喫茶店の店員さん。
でも、その誰も、ただただ好きだ好きだと1人で悶絶していただけで、何もできなかった。
そして、なぜか、一番好きな人とはまるで違う男から告白されて、流されるままに付き合ったりしていた。
人生ではじめてキスした男も、寝た男も、正直、自分が好きだと思って付き合った男ではない。
向こうに好きになってもらって、なんとなく、付き合いだした男だ。
「自分は、好きな男とは一生結ばれないんじゃないか」とすら思っていた。
このまま、自分を好きだと言う男と、気も進まないまま恋愛、結婚して、波風の立たない人生を送っていくのだと。
20代も半ばになるまで、半ばあきらめ気味にそう思っていた。
樹(たつき)と出会う、その日までは。
はじめて、好きになった男と、寝た第一印象は何も覚えていない。
気づいたら、知っている友人の中にいた。
社会人になって、人の輪に入らなければと頑張っていた香織は、会社でできた同期のグループでの集まりに、過剰に気持ちをふるい立たせて、参加するようにしていた。
そこにいたのが、樹だった。
はじめは、なれなれしく下の名前で呼び捨てにしてくる樹を、あまりよくは思っていなかった。
だが、いろいろな仕事の話をしているうちに、軽薄そうな話しぶりとは裏腹に、彼が案外真面目に将来について考えていることを知った。
たまたま家が同じ方向だったので、何度か2人きりで帰るようになった。
ある夜、電車で話し込んでいるうちに、香織が乗り換える駅に着いた。
香織が名残惜しく感じて振り返ると、サッと樹が目の前を遮った。
ひらり、とまさに音がしそうなほど軽やかに。
樹は電車から降りて、香織の横に立っていた。
「話が途中だから、そっちの電車まで送るよ」樹は白い歯を見せて、屈託なく笑った。
ズキン、と。
身に覚えのある痛みが胸に走った。
その日、香織は、恋に落ちたのだった。
恋をすると、いつもは手も足も出せないのが香織のつねだったけれど、樹の場合は勝手が違った。
何もかもごく自然な調子で、香織を緊張させないような気さくさで、樹はするっと香織のテリトリーに入ってきた。
そして、2人の距離はあっという間に縮まっていった。
「ねえ、今日家の近くで飯食おうよ。
香織んちのほうまで行ってもいいから」樹が、そんな風にいつもと同じように言い出したとき、まさかそれが、何らかのサインだとは香織は思わなかった。
ただ、樹と一緒にいられると舞い上がっていた。
だが、その日以来、樹は、会社の帰りにちょくちょく香織の家に寝泊まりして行く仲になったのだった。
はじめて、好きになった男と、寝た。
それが、こんなにすごいことだとは、香織は知らなかった。
抱きしめられるたびに体中が震えた。
目を覗き込まれると、もう動けなかった。
彼の皮膚も、髪も、匂いも、すべてが自分の身体の一部のように思われて、いっそ溶けていっしょくたになってしまいたかった。
夜、並んで横になって、別々の眠りに入っていくのすらさびしい、と思うほど。
恋なんて、今まで散々してきたと思っていたけれど、それは恋なんかではなかった。
これが、本当の恋。
身体の底から焦がれる、恋だった。
それまでは、誰かと付き合っていても、いつもクールで、必要以上にべたべたしたり、執着したりはしないタイプだと自分のことを思っていたけれど、ただ単に、相手が好きな男ではなかっただけなのだと知った。
「そこそこ好き」とか「嫌いじゃない」では、女はダメなのだ。
「心底好き」「身も心も好き」という状態だと、まるで違う。
だけど、この「好き」は凶器のようなものだった。
それを香織が知るまでに、そんなに長い時間はかからなかった。
元カノの存在「最近どうしたの? なんか情緒不安定?」友人の絵里香が心配して尋ねた時には、もう香織はすっかりはじめての恋に憔悴しきっていた。
「うん、……ちょっとね」なんとなく仲間うちには言い出しづらくて、香織は樹とのことを誰にも話していなかった。
「最近、樹とつきあってんの?」絵里香がズバリ、聞いてきた。
「え……」「なんか、最近よく一緒にいるじゃん。
」「ん、まぁ……」「なに? つきあってんじゃないの?」なぜか、言ってはいけないような気がした。
それは、樹が、周りに隠していたから。
樹がみんなに言うなら、それでもよかったけれど、樹が巧みに隠そうとしているのがわかったから、香織は自分からは言えなくなっていたのだった。
「別につきあってはいない、……かな」語尾があいまいになったのは、本当は話してしまいたかったからだ。
絵里香が勘がよければ、もっと突っ込んでくれて、そうすれば自分もすべて洗いざらい言うことができたと思う。
でも、絵里香は、あっさり引き下がった。
「そうなんだー。
樹は結構遊んでるっぽいから気を付けてね~」「え、……遊んでるんだ……?」絵里香は、少し優越感をにじませた親しげな調子で言った。
「あいつさー、自暴自棄になっちゃってるのよね。
前の彼女に振られてから、ずーっと。
なんか『もう女はこりごりだ』なんて言ってんの。
バッカだよね~」頭の内側がさあっと凍りつくような、嫌なしびれが走った。
「前の彼女……」そういえば、樹は時々、近づきがたいような冷たい遠い目をしていることがある。
何を考えてるの?と聞くと、何も答えない。
あれは、前の彼女のことを考えているのだろうか。
香織は、絵里香があれこれ勝手に話し続けるのを、遠くに聞いた。
聞きたくなかったけれど、頭が勝手に熱心に情報を飲みこみ続けた。
元カノは、年上の女性で、おとなしめの美人だったこと。
彼が高校時代から憧れていて、大学の時に、猛烈にアタックして、付き合うことができたこと。
4年間付き合って、彼は結婚する気だったこと。
でも、彼女は、先に社会人になって、会社の先輩にあっさり乗り換えてしまったこと。
彼は、その傷が癒えないまま、以来、彼女をつくっていないこと。
「カノジョ、つくらないんだ、……樹は」声が上ずりそうになりながら聞いた。
「あれ以来ね~、できないね。
やつは。
あんなに元カノに執着してる男、ダメでしょ」ははは、と快活に笑って、絵里香は、「あ、会議の時間だ。
またね!」と去って行った。
香織は、じっとりと汗のにじんだこぶしを握りしめて、そこに立ちつくした。
一度も「好き」と言ってくれなかった1秒も耐えられないような焦る気持ちで樹を呼び出して、香織は、単刀直入に元の彼女の話を問いただした。
「元カノのこと、まだ好きなの?」樹は、黙った。
目をそらす。
その仕草が、すべてを物語っていた。
「誰に何を聞いたかわからないけどさ、……その話はやめようよ」樹はいらだったような口調で吐き捨てた。
その言い方で、なぜか自分が軽んじられたような気がして、香織はカッとなった。
「言えないってことは、認めるってことだよね?」それでも樹は何も言わない。
ただ、それは苦々しいという顔だった。
決して、付き合っている彼女を傷つけてうろたえている男の顔ではなかった。
そのことが、香織を何よりも傷つけた。
「……私たち、別れたほうがよくない……?」血を吐くような言葉が思わず口をついて出た。
本心ではなかった、と思う。
なぜそんな言葉が口から滑り出したのか、自分でもわからなかった。
でも、一度出てしまった言葉はもう飲み込むことはできなかった。
「そんなに彼女が好きなら、私とは別れるべきだよ!」もう一度、香織は言った。
何かを、期待していたのだろうか。
彼に。
一体、何を。
香織の意に反して、樹から返ってきたのは、ぞっとするような言葉だった。
「別れるって言っても、」樹は、困惑したような無邪気な目で言った。
「俺たち、別に付き合ってるわけじゃないよね……」香織は、頭を殴られたような気がした。
思わず涙が目からぽたぽた零れ落ちた。
樹はうろたえて、ごめんごめんと言いながら肩をさすったりしてくれたけれど、触れた指が恐ろしく冷たく感じた。
「もう終わりに……する」香織は、まだ心のどこかで、樹が引き留めてくれるんじゃないかと無駄な期待を捨てきれずに言った。
けれど、その言葉が樹から否定されることはついになかった。
「ごめん……」樹は奇妙に几帳面な口調で、ただ、香織に謝るだけだった。
そういえば、樹は、一度も、香織に、「好きだ」とは言わなかったのだ、と気づいた。
はじめての恋の成就に浮かれていて、気づかなかった。
その日まで。
香織の短い恋は、こうしてあっけなく終わった。
いつまで好きでいるのだろう。
きっと、ずっと、いつまでも樹と完全に関係を絶つまでには、それから半年の時間がかかった。
何度も揺り戻しがあって、「2番目に好きなのでもいい」「付き合ってなくてもいいから」と、泣きながら樹にすがったことも数回あった。
でも、そうして自分に嘘をついているうちに、どんどん笑えなくなり、眠れなくなった。
会わなければいいだけなのに、どうしても会いたくて、会えば、想いをつなぎ止めたくて、身体を許してしまう。
自分でもバカだと思ったけれど、やめられなかった。
わけのわからない執着だけで、自分が彼に縛り付けられているのはわかっていた。
でも、自分からは手を離すことができなかったのだ。
はじめは申し訳なさをにじませていた樹も、だんだん、香織に対して、心底冷たい目を向けるようになっていった。
心が離れた男といっしょに寝ると、こんなに寒々しいものなのか、と香織は生まれてはじめて思い知った。
そして、だんだん樹からの連絡も減り、すっかりメッセージの返事も来なくなったころ、風の噂で、樹に新しい彼女がいる、と聞いた。
「結局自分はなんだったのだろう」と1年たった今、冷たい風の中でコートの襟をかき寄せ、香織は思う。
元の彼女のことは、何十回も考えた。
それほど傷ついたのなら、誰とも付き合わないのは、仕方がない。
彼は傷つけられた被害者なのだ、と涙ながらに思った。
そう思うほどに、なぜか彼への想いが切なく盛り上がった。
彼が愛おしくて、彼を忘れることができなかった。
でも、結局新しい彼女をつくったということは。
ただ単に、自分では元の彼女を忘れさせることができなかっただけなのだ、とも今は思う。
きっと、元の彼女がどうの、というのは、真面目に付き合わないための口実で、本命が現れたらあっさり覆せる程度のことだったのだと。
そう考えると自分がみじめでたまらなかった。
あんなに浮かれていた自分が、なんとも滑稽だった。
思えば、絵里香はあの時、なぜあんな話を自分にしたのだろう。
ふとそう思いいたって、香織は急に寒気を感じた。
もしかしたら、絵里香も、樹を好きだったのかもしれない。
だから、あんな話を自分にして、2人の仲をけん制したのかもしれないのだ。
だとすれば、彼女も同じように、元カノの幻影に苦しめられた同志だったのかもしれない。
ふと、雑踏に、見慣れた背中を見た気がした。
「あ……」と、咄嗟に立ち止まり、その横顔を必死に見つめた。
樹に似ている。
でも、髪の襟足の形が違う。
首を傾ける仕草が違う。
彼とは、全然似ていない。
いつまで好きでいるのだろう。
きっと、ずっと、いつまでも。
「香織!」後ろから呼び止められて、香織は、ひと呼吸してから振り返った。
顔に、とってつけたような笑顔を浮かべて。
「伸二。
おそーい!」過去に心を囚われている人間は、はたから見るとなぜか魅力的に見えるのかもしれない。
彼も。
そして、自分も、また。
そんな風に思って、心の中で苦笑しながら、香織は、歩み寄ってきた恋人の腕に自分の腕をそっと乗せた。
(恋愛部長/ライター)(ハウコレ編集部)